『バッド・エデュケーション』ペドロ・アルモドバル梅本洋一
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『私の秘密の花』以来「巨匠」への道を歩み続けていたアルモドバル。確かにそのメロドラマは、たとえ『オール・アバウト・マイ・マザー』のように表面的には「倒錯的な性」が存在していても、口当たりのよいものになり、かつてからの「毒」は彼から消えつつあったのも事実だ。もちろんアルモドバル自身は、誰よりもそのことに気づいていたにちがいない。『神経症すれすれの女たち』や『アタメ』を撮ったアルモドバルは、決して誰もが好む映画作家ではなかったはずだし、かつて存在していていたバロック的な表層が、メロドラマのゲームの規則に回収されていく様は、それなりに興味深くもあったが、その「完成度」は、ひょっとすると私たちがアルモドバルに求めていたものではなかったかもしれない。
そうしたとき、作り手たちは決まって自らを主題にする。自らという意味は、自伝的という意味と、自らの職業である映画という意味があり、だから常に二重のものだ。映画を撮ることそのものを物語にし、さらにその物語の空間と時間は自らが生きたそれらに極めて近い何かにする。成熟期を迎えた映画作家なら、必ず通る道程だ。『8 1/2』のフェリーニ然り。『アメリカの夜』のトリュフォー然り。『ことの次第』のヴェンダース然り。『バッド・エデュケーション』の主人公のひとりである映画監督のエンリケは、アルモドバル自身かもしれないし、エンリケが語る「最近はちょっとスランプでね」という台詞は、『トーク・トゥー・ハー』を撮ったアルモドバル自身の溜息かもしれない。スランプの映画作家のもとに、高校時代の友人が短編小説を持って訪れる。ふたりの初恋の物語だ。それを映画にすること。そして、その友人が本当の友人その人であったかどうかということ。物語は、ピランデルロ的な迷宮を生き始める。かつてのアルモドバルなら、この迷宮に身を任せ、どこまでも入れ子細工が続く構造をバロック的な意匠に包んで提出したろうが、「成熟」後の彼が、自らを乗せる映画とはフィルムノワールである。ビリー・ワイルダーの『深夜の告白』、あるいは、(必ずしもフィルムノワールとは言えないが)ルノワールの『獣人』がその下敷きである。つまり、アルモドバルは、ジャン=ポール・ゴルティエの衣裳、原色のセットといった表面的な「テカテカさ」とは反比例するように、極めて趣味のよいシネフィルなのである。
同時に、このフィルムは、アルモドバルのフィルムの多くがそうであるように、表層の意匠を凝ることである観念を示しているわけではなく、スペインの多くの場所──マドリー、バレンシア、ガリシア──の20年を示すことで、具体的な場所で起こった具体的な事件を並列させることで、自らの立ち位置を測定してもいる。多くの人々が死に、その後も、「映画監督のエンリケは情熱的に作品を撮り続けている」と最後の字幕に示されるのもそうした理由によるだろう。そして、注目されるのは、このフィルムにおいても、『ニューヨークの恋人』、『キングス・アンド・クイーン』と同じように、かすかな記憶を召還するために、ヘンリー・マンシーニの「ムーン・リヴァー」が使われていることだ。