『紙の花』グル・ダット田中竜輔
[ cinema ]
『アビエイター』はハワード・ヒューズの幼年期の母親との回想のショットに始まり、ヒューズの映画制作を含む人生の激動の20年程を語ることに映画の大部分を費やし、そして冒頭の場面に回帰することで終わる。つまりそれはハワード・ヒューズというひとりの神経症を病んだ男の原体験を、「QUARANTINE」という単語の響きとともに映画の全体に共鳴させることで、ハワード・ヒューズという強烈な人物像に対して常に暗い影を落とし続ける。その明確な始点とは、同時に終点であり、冒頭の僅か数分のワンシーンが映画全体を蝕んでいる。
その45年前に製作された『紙の花』はそれとまったく正反対の構造を持つ。グル・ダット本人が演じる元映画監督の男——このフィルムはグル・ダット本人の自叙伝といっても差し支えないだろう——が小さな撮影所に入っていくショットに始まり、彼の人生の栄光と没落の十数年を語り、グル・ダットが冒頭に入り込んだ撮影所で死体となって発見されることで映画を終える。このフィルムを覆い尽くすのは物語の終点であり、映画の始点である彼自身の死だ。
目まぐるしいモンタージュの渦が神経症的な響きとなる『アビエイター』と、暗い撮影所に差し込む一線の光や、憂いを含んだ幾つもの音楽が生の煌きを緩やかに語る『紙の花』はまったく異なった趣を持つフィルムだ。すでに終わったはずのヒューズの人生に対して「the way to the future」という言葉で映画を終わらせるマーティン・スコセッシと、冒頭から「諸行無常」を意味するだろう楽曲を奏でることで「終わり」を明確に示唆した生けるグル・ダット。異なった時代と異なった場所で撮影されたこの2本の映画が持つそれぞれの口調は、語られる物語をほとんど同じとしながらも決定的に異なっている。
この2本のフィルムでは中盤に大きな「事故」を契機として持っていることも共通しているが、『アビエイター』のそれが映画の中で最もエキサイティングなワンシーンとしながらも、再び映画に暗い影を重ねるのに対して、『紙の花』では事故の直前の情景として幸福なドライヴのワンシーンがミュージカル的な形式で演出され、相当な大怪我を負うことになったはずの事故自体は台詞で短く語られるだけであり、グル・ダットが怪我に苦しむシーンもヒロインであるワヒーダー・ラフマーンとの関係を深めるための美しい時間として扱われる。
ある物語、ある人物の人生の一部分を語ること、その原形をほとんど同じようなものとして制作されたこの2本の異なる時代と場所のフィルムは、始点を終点とするか、終点を始点とするかによってまったく製作における正反対の態度を表明している。それは一方ではすでに経過したはずの過去へと向けられた始まりへ、一方では決して追い越してはいないはずの未来に向けられた終わりに向けて同じ物語を語ることだ。『アビエイター』でヒューズが母親に身体を洗われる浴室、『紙の花』でグル・ダットとワヒーダー・ラフマーンが語り合う撮影所、その両方の空間には光が差し込んでいた。前者においてはその光は幼いヒューズの背中に暗い影を落とすためのものとして、後者においては暗闇の中にいるふたりを微かに照らすために。この2本のフィルムの差異はその静かな光の所在に集約されているのかもしれない。