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April 16, 2005

『現金に手を出すな』ジャック・ベッケル
藤井陽子

[ book , cinema ]

初老のギャングであるマックス(ジャン・ギャバン)は、行きつけの店のジュークボックスや彼の第2の家(隠れ家)で「グリスビーのブルース」をかけていた。そして金魂があらわになる時にも、いつも「グリスビーのブルース」が流れていた。金塊とこのブルースは密接に結びつき、マックスもまたこのブルースから離れられない。
「金魂」で思い出すのは、同じくジャック・ベッケルの『赤い手のグッピー』だ。最後までなかなか見つけることのできないグピー家の宝(金塊)は、彼らの家の柱時計の振り子だった。その宝を、赤い手のグピーが一族みなに分けようというとき、確かこんなことを言うのだ。「百姓は金を尊ぶ。金は労働だからさ」と。盗みを働くことを労働とみなさないならば、田舎を脱出するために一族の金を盗む『赤い手のグッピー』のトンカンも、金魂8本を盗む『現金〜』のギャング・マックスも、結局最後に金を手にすることはできない。そして盗人は、果てなく大木の先まで登りつめ光の中でついには落下してしまう哀れなトンカンのように、過剰なまでに加速してゆく状況の中でいつも大切なものを失くしてしまうのだ。
中産階級出身の遊び人で高級バーの馴染でスポーツカーにも乗っていたというジャック・ベッケルは、そういえば何かとお金の問題を取りあげていたように思う。『幸福の設計』は当選した宝くじをめぐっての右往左往だったし、『エドワールとキャロリーヌ』では貧富の差がふたりの諍いの発端のひとつだった。『現金に手を出すな』は、お金の絡むトラブルという彼のいくつかのフィルムにまとわりつく問題を前面に引き出し、「グリスビーのブルース」によって語った物語だとも言うことができるだろう。
しかしこの映画の醍醐味はそれではない。
ジャック・ベッケルの映画の醍醐味と言えば、愛すべき小市民生活の細部の描写だろう。それはこの映画にも健在だ。マックスとリトンのギャングふたり組みが、並んでラスクをぽりぽり齧ったり、顔のしわを気にしたり、パジャマに着替えて歯を磨いたりするシーンは、すでに多くの人がすばらしいと述べているようにやはりすばらしく、私の胸にもおそらくずっと残り続けるだろう。これらの細部の描写は、例えば、バーのカウンターに「釣りは要らない」と言って紙幣を置いていったマックスを見て、「いい客だなあ、また来てほしいぜ」とつぶやく店員の言葉を、次の動作によって——飲み残された酒を、漏斗を使って酒瓶に戻す——これ以上ないほどの信憑性をもたせるという効果を生み出している。ジャック・ベッケルの映画の細部の描写には、人物の動作や表情を見ることの快感のみならず、その人の発するちょっとした言葉にも「芯」を持たせるような効果があるのだ。
おそらくそれによって、ラストのマルコとリトンの死は、何をも言い得ないような複雑な感情を見るものにもたらすのだろう。われわれは彼らの死の前のほんの些細な瞬間に、マルコが大きなケーキを平らげようとする姿を見ていたし、リトンがパジャマで歯を磨いている姿を見ていたのだから。そして、爆発した車のなかにある金塊を案じてマックスが力なく走りよるシーンは、金塊が失われる喪失感とともに、マックスの力なく走る姿によって彼が以前「しわ」の話をしていたのが思い出され、「マックスが老いていく」というどうしようもない事実を突きつけられることで、ほとんど涙が出そうになってしまうのだ。
マックスは親友と仲間と金塊を失った。彼には老いも迫っている。リトンは死んだ。そこにはまた物悲しい「グリスビーのブルース」が流れている。悲しさだけでは済まない感情がおしよせて来る。しかしジャック・ベッケルは最後に彼らをまったく突き放すような残酷なことはしなかった。彼は、マックスのために昼食を共にする女を、死んだリトンには横たわる若い裸婦の肖像画をその枕元に掲げているのである。私はジャック・ベッケルのそういうところが本当に好きだ。


記憶、引用、回想の中の映画
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