『ビッチェズ・ブリュー/タコマ・ナロウズ』ローザス三橋 輝
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舞台の3方を囲む幕から覗ける(ちょうど膝から下の分だけ隙間がつくられている)、いくつものヒールを履いた脚が、DJによって流される脈絡のないバックトラック──ジミ・ヘンドリクス、デスティニーズ・チャイルドなど──のリズムにのってステップを踏んでいる。ここでは、身体の一部しか見られないという目隠しの効果も手伝って、集中して見てしまうその脚の動きはプロのダンサーだからなのだろう、普段目にするものよりもずっとシンプルで、とても官能的だ。音が止み、光が落ちると13人のダンサーたちがその隙間から、ランウェイを歩くモデルのように登場し、舞台上のスタート・ポジションにつく。そしてDJ(彼もダンサーのひとりだ)の「Bitches Brew!」の掛け声によってダンスが始まる。そこで行われるのは「音になること」、言い換えれば「音」という名の「空間」を肉体の動きによって、ダンスによって創出することだ。だからこれは、マイルス・デイヴィスによるこのスタジオ・セッションの再現にもなる。ベース・ソロが鳴り始めると小柄な女性ダンサーが舞台の中央へと登場し、背の高いキリンのような男性ダンサーがマイルス(トランペットでありこのセッションの支配者)だ。このローザスは今まで見たことがない。特徴である徹底した楽曲分析(初期のそれはライヒやバルトークなど)を基に構築された(音に当て嵌めるように)厳密に距離と動きが決定されたコレオグラフが存在しない。インプロヴィゼーション・ダンス。ダンサーたちはセッションにおける各楽器のパートだけでなく、それぞれの位置と関係そしてヒエラルキーすら「音になる」ことで現時的に再現する。だから常にマイルスを代行するソリストには舞台上のダンサー全員が注視し、互いの距離を常に測定し、保持し、牽制しあう。支配者の動きは、不要なものをすべて舞台から排除しつつも、決して動きを止めること=音を鳴らすことを止めさせない。舞台という「空間」での肉体=音という「空間」のせめぎ合い。それは人と人が出会い分かれる物語ともなりうる。ダンスホールさながらの丸椅子が幕に沿って散在し、ドレスやワンピース、シャツにジャケットを何度も脱ぎ、着替える彼らの物語。だから、不意に訪れる出会いの(グルーヴが一致し、ソリストたちが中央で共に踊る)シーンは感動的であり、また別れのシーンは、多くの「別れ」がそうであるように、実にあっけない。そしてこうした物語は「生の獲得」とでも言われそうな舞台として捉えられてしまうだろう。だが、そのようなあまりに普遍的すぎる喜びや感動とは彼らは無縁だ。「音になる」こと。空間内で新たな空間を生成、変化する様を肉体で可視のものとすること。「空間」に、はちきれんばかりに充満する「空間」のせめぎ合いが生み出す膨大な緊張感。新たな空間の創出の瞬間は、息をのむほどスリリングだ。
だが一転、Tacoma Narrowsへとテーマが変化すると舞台は突如弛緩する。彼らはまるで呪縛から解き放たれたかのように、笑顔で、JBや、スライ・ストーン、ジミ・ヘンドリクス、フランク・シナトラといった音に合わせてノリはじめる。(特にジミヘンの「FIRE」でのディスコテークさながらのダンス!)手を繋ぎ、レヴューさながら脚を上げる。タコマ・ナロウズ橋の崩壊を背景にキャバレーのように生の快楽を享受する彼らはとてもハッピーだ。そしてこのハッピーはBitches Brewへと戻り回収されることなく最後まで続けられ、ブルース(ロバート・ジョンソンだろうか)による幸福の清算が行われ、ダンスは終わる。
無邪気で純粋な、奔放な生の快楽は確かに魅力的だ。だが、「哀しみ」によって「幸せ」に落とし前をつけるというのは幸福すぎるほどにその在りか、存在について無自覚だ。もちろん緊張感は存在しない。提示されたまったく異なる2つのローザス。未来へ続く道筋がどちらにあるかは明らかだ。