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April 21, 2005

『私の家は山の向こう─テレサ・テン十年目の真実』有田芳生
衣笠真二郎

[ book , book ]

teresaten.jpgテレサ・テンが亡くなったのは10年前。その死は突然というよりも唐突であったように記憶している。歌手としての彼女の存在を忘れていたわけではなかったが、「え、死んだの?」と訝って聞き返すしかないような驚きがそこにはあった。それは不意を打たれたからではない。ゆっくりとした不気味なものが彼女の存在を飲み込んでしまったようにも感じられる、不確かな疑惑こそが彼女の死を伝えるニュースには漂っていたからである。なぜテレサ・テンはいきなり死んでしまったのか、そのような人々の疑問に答えるようにしてメディアは《テレサ・テン=スパイ説》を垂れ流して人の死を食い物にした。著者・有田芳生が本書を執筆したもっとも大きな理由は、《テレサ・テン=スパイ説》を報じた愚かなメディアを完膚無きまで批判するためであり、ならびに、その虚偽の事実を人々に憶測させてしまったことに関係するいくつかの事実をきちんと記述しておくためである。
もっとも大きな疑惑を呼んだ、タイのチェンマイでの彼女の急死についてはその様相が分単位で描写され、その死が喘息の悪化による呼吸不全とスプレー式喘息薬の頻繁な接種による心臓負担に疑いがあることが明らかにされる(晩年のテレサ・テンは14歳年下のフランス人といつでも時間をともにしていたことを読者は知ることになるのだが、彼女の異変に気付こうともしないその男のだらしなさにもテレサ・テンを急死させてしまった要因があるようだ)。
また、80年代にテレサ・テンは無償で軍隊を慰問し台湾各地をコンサートをしてまわることで台湾政府に協力していたことも本書で記述されている。1979年のアメリカと中国の国交回復以後、孤立に立たされた台湾と民主化の気運が次第に高まっていく中国との緊迫した政情のなか、テレサ・テンの歌こそが人々にとって自由の象徴であった。台湾政府による「思想浸透工作」という名のもとに、大陸に最も近い島に設置されたスピーカーからテレサ・テンの歌が巨大音量で放送されていたのもそのときだ。民主化の熱に震える中国の若者たちのために天安門広場で100万人コンサートを開催することも彼女は考えていた。しかし、1989年の「事件」によってその夢は完全に潰えた。ひたすら「民主」を主張しつづける彼女のシンプルな政治的態度は、だいたいこのようなところからうかがうことができるようだ。
「事件」が起こる一週間ほど前に、北京の学生を支援するコンサートが香港で開催され、それに参加したテレサ・テンが歌った歌「私の家は山の向こう」が本書の付録CDに収められている。「私たちの育ったところを忘れちゃいけない」と告げる古くから親しまれたその歌は、日中戦争時は抗日歌として台湾独立後は反共歌として歌われてきた、反体制のメッセージが色濃いものである。軽いメロディーをピアノの伴奏1本で歌いあげるテレサ・テンの歌声は清明で美しい。
ここで、やはり気になってしまうのは、この歌が今日でも中国大陸で歌われているかどうかということだ。1995年に彼女の存在を奪ってしまったものが不気味で不穏な空気だとすれば(実際に彼女の死因は喘息だ)、それがこの歌を朴訥に信じることのできる環境までも汚染し不透明なものにしたのではないか考えることは邪推にすぎないだろうか。「私の家は山の向こう」のCDを聞く度に、その曲が北京のラジオから流れ出している光景を想像しては掻き消すことを繰り返してしまう。