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April 25, 2005

『フルタイムライフ』柴崎友香
神徳雄介

[ book , music ]

furutaimu.jpg新しい春だ。この季節になるといつも不思議に思うことがある。山手線の車内で、昼間のオフィス街で、週末の夜の盛り場で、いろんなところでスーツを着た会社員と思しき人の一群を目にする。その中にまじっている新入社員をどうしてか、容易に見分けることができる。真新しい、着慣れないスーツのせいばかりではない。彼らのまとっている空気が、他の人のそれよりもなんとなくこわばっている。不安や緊張や焦り、そしてそういうこと以上に、新しい毎日の中でできるだけしゃんとして前を見ていようとする気概が、なんだかすこしだけドラマチックに、周りから浮き上がって見えるのだ。けれど、桜が散って、梅雨が来て、蝉の鳴く頃にでもなってふと同じように街を見渡せば、もうそこには「新入社員」の姿はない。彼らは変わらずにそこにいるのに、もう一見してそれとは分からなくなっている。過不足なく風景に収まっているのだ。やがてまた新しい春が来て、その年の新入社員が街にあふれ出す。見てすぐにそれと分かる「新入社員」たちが。
柴崎友香の『フルタイムライフ』は新入社員にまつわる物語だ。本の帯には「『きょうのできごと』の著者が四季を通じて、細やかに綴った新入社員の10ヶ月」とある。10ヶ月間もあれば、人は変わる。あるいは、10ヶ月間では人は変わらない。別にそんなことはどうでもどっちでもいいのだが、すくなくとも4月、あれほど分かりやすく目立って見える新入社員たちがそのあとどのような毎日を過ごし、どのような経過を辿って風景に溶け込んでいくものなのか、そのプロセスの一例をこの小説を読むことで追うことができた。
筋らしい筋はない。主人公の喜多川春子は包装機器会社で社内報の制作などにあたりながら、友人とデザインのユニットを組んでいる。デザインの方は、その都度契約を結んでお金をもらってやるような本格的な仕事ではなく、たまに知り合いがやるライヴのフライヤーを作ったりする、きわめて趣味的な要素の強いものだ。この小説では主に彼女の会社での毎日が描かれる。とはいえ、べつに過酷な職場体験のようなものが語られるわけではない。〈デザイン=夢〉と〈会社=現実〉の対立を描いている、というといかにも分かりやすいが、これは全然そういう小説ではない。
物語のおしまいの方(1月、入社から9ヶ月経ったころ)で、友達のライヴに出かけた主人公が今度こういうところに来る時はイヴェント好きの会社の同僚を誘ってみようかな、と考える箇所がある。それまで大学までの友だちと会社の人は別の世界のような気がしていたけれどそれは違うのかもしれない、と。自分は好きなことができているし、会社に行って仕事をして給料をもらっているのも、とてもいいことだ、と。そして彼女はこう考える。「必要なのは、なにかするべきことがあるときに、それをすることができる自分になることだと思う」。
それから2月、最後の章。外から自分の会社に戻ってきた主人公が、そこで働いている人々、会社の空間の全体を見渡して、ふとこう思う。「一年近く毎日ここにいるのに、知らない場所に間違って入ってきたみたいな気がしてきた」。
おそらくここでは、日常の全部の時間が自分の人生なのだという実感が生まれている。多少むず痒い言い方をすれば、それは同時に、そういう毎日をまるごと肯定するということでもあり、永遠になくならない所与のものなんてどこにもないと気付くということでもあるのだろう。夢と現実の二項対立といった図式からはけして体得することのできないこうした発見をするたび、たぶん彼女は少しずつ「新入社員」ではなくなっていく。