『コンスタンティン』フランシス・ローレンス結城秀勇
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『マトリックス』のパロディをキアヌ・リーヴスが演じる映画なのかと思っていたのだが、どうも間違っていたようだ。『マトリックス』のパロディという選択が志の高いものか低いものかはともかく、『コンスタンティン』には志と呼べるようなものはなにもない。ただ意志もない一連の企てが収束していく果てが、なんとなしに『マトリックス』に似通ってしまう。無論、否定的な意味でだ。
何がどう似ているのか。目に付く細部を挙げてゆけば、それらはことごとく対照的であるようにも思える。天国・現世・地獄という平行世界や、アナログな小道具たち。十字架を模した銃、魔よけのペンダント、キリストを突き刺した「運命の槍」。ひと言でいえば、陳腐だ。精巧さなど端から求めてはいないように。ただそういうものが存在する世界なのですよ、という説明のためだけにあるかのようだ。『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2』の空飛ぶスケボーが、単にそういうものが存在する世界=未来という説明に留まらず、ものとしてどうしようもなく僕らを魅惑したようには、天国も地獄も(といっても天国は描かれない)そこにあるものたちも魅力的ではない。兵長ロンギヌスの槍を「運命の槍」と呼び代えるのは、アナクロな仰々しさによって、僕らの世界に存在するものをちょっと違うものに変え、それが存在してもいい世界をつくる口実なのではないだろうか。そこに存在する口実が精緻なものか否か、が『マトリックス』との根本的な違いであって、実際それ以外はしらずしらず似通ったものにでき上がっている気がしてならない。
だから例えば、冒頭にメキシコという地名が登場しようと、そこはアメリカでない場所、都会でない場所という、〜でない場所としてしか形容のしようがない場所なのだ。またロスアンジェルスという地名が出ようとも、「天使の町」という語呂合わせ以外に何らその地名に必然性はないのだな、としか思うことはできない。もしこの映画に出てくるメキシコがあの「メキシコ」で、ロスアンジェルスがあの「ロスアンジェルス」だったとしたら、『コンスタンティン』は近年まれにみる「煙草ポイ捨て映画」として成功したかもしれない。だが、この映画のメキシコもロスアンジェルスもその後ろに背景としての地獄を隠し持っている以上、捨てられた煙草の吸い殻はあの「メキシコ」でもあの「ロスアンジェルス」でもないどこかへかたづけられてしまうのだろう。
キアヌ・リーヴスは煙草をポイ捨てし、血をぶちまけて、癌細胞を排出して、最終的に身も心もクリーンな存在になっていく。この映画をこの世界で撮るとしたら僕は、彼の青白い顔から抜け出た血や、真っ黒な癌細胞や、そこに投げ捨てられた吸い殻、彼の体から出てここに残された排出物だけを撮るだろう。