『獣人』ジャン・ルノワール藤井陽子
[ book , cinema ]
『獣人』を見た後、なぜか青山真治の『Helpless』のことを思い浮かべていた。ドミニック・パイーニが、ふたつのフィルムを並べることでできた「間」の中に新たな思考と視点を見出そうとしていたように、『獣人』と『Helpless』の間にも新たな思考と視点を見出せるかもしれない。
そもそもなぜ『Helpless』なのか。『獣人』の初めのシーンと、ルボーがグランモランを殺害するシーン、そしてフィルムの終わりに、「トンネル」が印象的に描かれていたからだ。そして、ランチエ(ジャン・ギャバン)がセヴリーヌ(シモーヌ・シモン)を殺してしまう時のわけのわからない恐さ(文字通り「わけがわからない」)が、『Helpless』でフライパンを振りかざす浅野忠信と重なったからだ。
ドミニック・パイー二が上映後の講演で「ジャン・ギャバンの怒り」に触れて話した。「怒り」とは、自分からはみ出てしまったものであり、それは同時に自分から一瞬脱出することなのだと。ジャン・ギャバンの怒りの声とは、彼の体内を抜けてはみ出した自己なのだと。「先天的な精神の病」によって、感情の高ぶりとともに突如現れる凶暴性を持ったランチエが、愛するセヴリーヌの首を絞めナイフで刺すとき、セヴリーヌの悲痛な叫び声とランチエの呻き声が、彼らの体内から漏れ出したのとは逆に、『Helpless』の浅野忠信がふたりの男女をフライパンで殴り殺すとき、彼は何も声を発さなかった。そこにはただフライパンの鈍い音がしただけだ。彼は怒りの声をあげず、それを内部へ飲み込んでいた。
思い出すのは、『獣人』に出てくる機関車が、ものすごい速度で轟音とともにトンネルを通過したことと、『Helpless』のトンネルが、音もなくゆっくりと後退し内部に含まれるように描かれたことだ。ふたりのトンネルの描写はまさに、怒りの声が通りぬける体内の管(トンネル)として描かれていたのではないか。
どちらも恐ろしいフィルムだ。しかし「怒り」によってそこからはみ出し、脱出することのできない青山真治の『Helpless』は、ジャン・ルノワールの『獣人』以上に恐ろしい。そして救いがなく、見るものをより混乱させる。