『ライフ・アクアティック』ウェス・アンダーソン梅本洋一
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ビル・マーレイ扮するスティーヴ・ズィスーはなぜズィスーという姓なのか。Zissouというスペリングだが、こんな姓の人は(それほど多くはないが)ぼくの知人にはいない。
ベラフォンテ号には、この時代に適合できない人たちが乗船している。ドキュメンタリー・フィルムなどもう時代遅れだし、ここに出てくる海の生物──どれも想像の産物だ──に本気で興味を持つ人などいないのではないか。でも、皆、本気なのだ。ズィスーが本気なのは当然だが、ドキュメンタリー映画のプロデューサーも、出資者である夫婦仲が最悪になった妻も、ズィスーの本当の息子なのかどうかさえ怪しい息子を名乗る若者も、皆、本気なのだ。ドキュメンタリー映画に本気で、海の生物に本気で、彼らのルポルタージュを書くことに本気なのだ。ラストで彼らの本気の夢の一部は叶えられることになる。けれども、このフィルムが描いているのは、望めば叶えられるという夢を実現すればすべては報われるという物語ではない。いくつもの問題に出会い、それを回避したり、それを解決したり、いつの間にか問題そのものを忘れたりしながら、皆、一緒であることだ。だから、一緒のはずの誰かが、いなくなったり、鮫に食われたり、ヘリコプターから墜落して命を落とすことは、とてつもなく悲しい出来事なのである。ドキュメンタリー映画が当たらなくてもしょうがない──いや、当然だ。そんなものに出資する人がなかなか見つからないのも当然だ。わざわざ映画館やフェスティヴァルの会場に足を運ばなくても、海洋生物に興味を持っている人は、テレビで「動物奇想天外」を見たり、ときどき水族館に足を運べばこと足りるのだ。大金をかけて、母の遺産を全部つぎ込んで、体を張って、命をかける必要などないのだ。たかが鮫だ、たかが海洋生物だ。たかが映画だ。でも「たかが〜」だからこそ、体を張る、命をかけることは、きっと正しいことだ。世の中の役に立たない「芸事」だからこそ、ぼくらは体を張るし、命をかける。スポーツと同じだ。なくったってかまいやしない。結果はとりあえず括弧にくくって、その過程を必死で生きてみることだ。だからこそ、ぼくらは素晴らしい仲間に恵まれ、すばらしく強度に溢れた時間を生きることができる。チームでやるスポーツとそっくりだ。
そういえば、チームでやるスポーツの名選手のひとりにZizouという渾名を持っている男がいるのを思い出した。今はレアル・マドリーにいるディネディーヌ・ジダンという男だ。足も速くないし、ワンタッチ・コントロールよりも、マルセイユ──Zizouの生まれた街だ──ルーレットでボールをキープしてしまうことを選び、うまく行くときはいいが、失敗すると単にアタックが遅延するだけだ。そういえばジズー(こっちはズィスーではない)の生まれた街で大きなドキュメンタリー映画祭が行われている。