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May 17, 2005

『パリところどころ』
須藤健太郎

[ cinema , photo, theater, etc... ]

parisvupar.jpgこの前、特に目的もなく六本木のABCに立ち寄ると、『パリところどころ』のDVDが売っていてびっくりした。『アデュー・フィリピーヌ』とセットで昨年の11月頃に発売されていたらしかった。かなり迷ったあげく、勢いで買ってしまう。すごい見たかった。ヌーヴェルヴァーグに興味を持っていくつも文献を読んでいると、『パリところどころ』というタイトルにいつも出会った。でも、未見だったのだ。
『パリところどころ』は、パリを舞台に6人の監督が撮った10分から20分程度の短編で構成されるオムニバス映画である。たとえば、16分長回しのワンショットで有名なジャン・ルーシュの『北駅』やジャン=リュック・ゴダールの『モンパルナスとルヴァロワ』、ジャン・ドゥーシェの『サン=ジェルマン=デ=プレ』などが収められている。65年製作の本作は、同時録音のできる軽量のカメラを使ったパリでのロケーション撮影が、瑞々しいとしか言いようのない感動を見るものにもたらすという意味でも、また、たとえばクロード・シャブロルの『ラ=ミュエット』が、その後の彼の諸作に見られる平穏な中流家庭に潜む欲望などを描くように、監督の個性が十分に発揮されており、それぞれが作家の映画であるという意味でも、紛れもないヌーヴェルヴァーグの作品である。
 しかし、そのような本作を純粋に楽しむことができたかと言えば、実はそうでもない。未見の作品を見ることの喜びを堪能することはできなかった。『パリところどころ』は、バーベット・シュローダーがレ・フィルム・デュ・ロザンジュを立ち上げるために企画した作品だ。バーベット・シュローダーと言えば、ヌーヴェルヴァーグというパリでの運動に巻き込まれながら、その後ハリウッドに渡った人物として知られているだろう。本作の企画や製作における彼の役割の大きさや本作の歴史的な重要性、そして彼の人生の軌跡を考慮すると、彼への興味がふつふつと湧いてくる。だが、本作の製作には、クレジットこそされてはいないが、もうひとりの人物が深く関与していることを忘れてはならない。製作助手のパスカル・オビエが「ピエールとバルベは(……)製作と管理に関するすべてに専念した」と語っているように、その人物とはピエール・コトレルである。彼もまたシュローダーと同じくパリからアメリカへと渡った人だ。
 周知のように、彼はジャン・ユスターシュのプロデューサーだった。ユスターシュの代表作と言える『ママと娼婦』『ぼくの小さな恋人たち』のプロデュースをしたのは彼であり、もしこの2本がなければユスターシュの名前がこれほど伝説的になることはなかっただろうことを思えば、ユスターシュにとってコトレルの存在がどれだけ大きかったかがわかる。彼らは、ユスターシュが映画を撮る前からの友人でもある。ふたりは、一方が監督に、もう一方がプロデューサーになってからの再会を誓い合うほどの仲だった。
 コトレルがプロデューサーになることを決意し、アメリカへ渡ったのもユスターシュとの関係が原因だった。ユスターシュが当時の妻とコトレルとの仲を疑い、パリにいられなくなった、とコトレルはのちに回想している。70年代初頭、再びパリに戻ってきた彼に、ユスターシュはある企画を持ちかける。コトレルは、アメリカでつくったコネを生かして資金集めをし、それを完成まで見届ける。それが『ママと娼婦』だ。ユスターシュの我儘を叶え、それを形にすることができたのは、何よりもコトレルのおかげだった。
『ニックス・ムービー/水上の稲妻』のプロデュースをしていることに特徴的なように、コトレルはヨーロッパとアメリカの橋渡し的な役割を担ってきた人だ。世界中を旅して人脈を広げ、それを生かして次の仕事につなげる。クレジットされることが少なくとも、彼が水面下で関わった映画はたぶんかなり多いはずだ。アメリカに渡ってすぐに、アンリ・ラングロワをオットー・プレミンジャーに引き合わせたり、彼のおかげで世界の映画が交流したという部分も大きいのではないか。しかし実際は、彼のことはほとんど何も知らないに等しい。
 純粋に映画を見ることができなかったのは、ピエール・コトレルのことを考えてしまったからだ。彼はいま何をして、これまでどのような人生を送ってきたのだろう。アルノー・デプレシャンはその最新作『キングス・アンド・クイーン』の主人公ノラの前夫にピエール・コトレルという名前を付けていた。彼のことが気になってしょうがない。