『さよなら、さよならハリウッド』ウディ・アレン月永理絵
[ book , cinema ]
目が見えなければ、映画を撮ることはできない。カメラのアングルを決めたり、ラッシュを確認したりできないから、というよりも、ひとつひとつの決定に説得力がないからだ。映画を撮ることは、そこに何がありどんな風に動くべきなのかを決定することでもある。決定事項は膨大な数ほどある。ロケ地がたくさんあり、ショットの数も増えればさらにたくさんのことを決定しなければいけなくなる。もっとも簡単なのは切り返しを繰り返すことかもしれない。
ウディ・アレン演じる映画監督は、ストレスによって映画のクランクイン前日に突然失明し、映画が編集を終えた頃に突然視力を回復する。つまり、彼はまったく何も見えない状態で映画を撮り終えてしまう。ホテルの部屋で、彼は目が見えないことを隠したままある人物と面会しなければいけなくなる。そしてそのために、事前にホテルの部屋で予行練習を重ねることになる。部屋に入りここから右に3歩、左に2歩、そこでぐるりとまわってソファに座る‥‥‥。長い、長い予行練習は、まるで映画の撮影のようだ。また別の場面では、ウディ・アレンと分析医とが向かい合い、彼らの会話が切り返しで撮られる。彼は分析医がどこにいるのかわからないため、相手の顔を見つめることはできない。だから彼らの視線が噛み合わないのだと、何の違和感もなく感じてしまうが、実際には分析医の視線が彼の顔を見つめているかどうかなどわからない。ただ、分析医の目が見えているという事実が、そう信じさせてしまうだけなのだ。要するに説得力の問題だ。
『夫たち、妻たち』の撮影についてウディ・アレンは、俳優たちの行動に「君たちが動きたいように」と自由を与えてみたところ、期間もショット数もいつもより少なく撮影ができた、とインタヴューで語っていたが、もちろんある種の自信がなければできないだろうと付け加えてもいた。彼なら目を瞑っていてもニューヨークを撮ることができると言われようと、やはり何かを決定する根本的な自信がなければ映画を撮ることはできない。ここにはニューヨークの街並みは映されていないが、代わりに、ホテルの部屋での偏執狂なまでの動作の繰り返しや、不自然な切り返しショットの連続がある。「彼ならニューヨークを完璧に映し出してくれる」というような、周囲の声をあっさりと裏切ってはいるが、ニューヨークから逃げ出していく彼の姿からは、「映画とはこういうものだ」というような説教じみた言葉ではなく、ただ、「こうしたこともまた映画なのだ」という言葉が感じられた。