サッカー日本代表最終予選について小峰健二
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ワールドカップ最終予選はタフだ。ゆえに面白い。この事実を私たち日本人も知っている。むしろ本大会より面白いと言ってもよい。この常識もまた私たち日本人は知り始めている。だから、昨今サッカーにまつわる言説がどこかしこに飛び交っている。誰もが、やれ俊助だ、やれヒデだとまくし立てる。ワールドカップ最終予選が実施される2005年。日本はサッカーをめぐって熱を帯び始めた。
2月、ワールドカップ最終予選が幕を開けた。北朝鮮戦では辛くも勝利をあげ、上々とは言わないまでも勝ち点3という「結果」は残した。3月、中田や小野の瞠目すべきプレーも見られたイラン戦。しかし、ジーコは馴染みつつあった3バックから高度な4バックへの変更を試み、あえなく躓いてしまう。アウェーの、しかも、10万超の観衆の前でジャパンは合格点の動きを見せた。だが、勝ち点3どころか1すら掴み取ることができなかった。ただ、まだまだ計算の範囲内である。次のバーレン戦でジーコは回答を迫られる。世論に動かされたのかどうかは私の知るところではないが、ジーコは簡単に3バックへとシステムを戻す。バーレン戦、日本のディフェンスは完璧に近い。しかし、得点も相手のオウンゴールだけという惨めな勝利。「結果」がすべてという声が聞こえてくる。リアリストであることに徹したジーコを評価する向きもあった。ジーコは解任を免れた。だが、また世論が騒がしくなる。4月、本屋の書棚がブルーのジャージを着たジャパンの選手たちの写真で埋められる。「Number」「サッカーマガジン」「サッカーダイジェスト」など。その誌面では「ジーコジャパン」が論じられ、選手のインタヴューが掲載された。過去3試合を振り返っての論考が掲載され、今後の課題が座談会で話し合われる。どれも興味深いものであり、サッカー、それもワールドカップ最終予選への日本人の興味を窺い知ることができた。
ただ、どうだろう。いずれの論者も歯切れが悪い。ちょうど1年ほど前の語気と比べてみるとそれは明らかだ。あの「ジーコ解任デモ」を行ったサポーターも忘れ去られている。ジーコを批判する論者も少数であるし、解任を推奨するキャンペーンもこれといって見あたらない。なぜだろうか。よくよく考えてみると、今まさに最終予選の真っ只中であるからという理由が適切だろう。今ジーコに変え別の監督にジャパンを任せるのもギャンブルになるし、何よりジーコはアジアカップを含め「結果」だけは残している。協会はジーコを切り捨てることはできない。だから、サッカー誌の論者やサポーターの関心は「ジーコジャパン」でどのように最終予選を勝ち抜くかという問題に終始している。ただ、何人かの有識者が指摘しているように、ジャパンはこのままだと本大会で勝つことは難しい。ほぼ確実に最終予選は突破するだろうが、02年の結果に及ばないばかりか98年の結果に逆戻りしてしまうだろう。もはや「参加することに意義がある」ジャパンなどではないはずだ。もう6月は目の前だ。その時私たちははっきりとジャパンとジーコを判断し、見きわめなければならない。さもないと、本大会において、ジーコによる「結婚詐欺」にも似た裏切りにあうかもしれない。