『ホテル・クロニクルズ』青山真治月永理絵
[ book ]
7つの場所を巡る物語。この中の、いくつかの短編が文芸誌に掲載されていたのを読んだことがある。しかし、そこで書かれていた場所の名前のほとんどを忘れていた。物語を読んだ、という記憶だけが強く残っている。
青山真治の小説を読むことは、私にとって苦しい体験だ。すでに終わってしまったものに対して、憧憬を感じるでも悔しむでもない。終わったことをただ認めるしかないのだと、読むたびにそんなことを思う。絶えず「自分用の死」が「自分の外側」に、目の前に待っている。死ぬことも、自分の手で終わらせることもできない。すでに用意された死に抵抗するでもなく、だがそれを受け入れることもできずにいる。そんな感覚に近い。この本に何度も登場する「死」や「終わり」という言葉の前に、私は「文学の」という言葉を想像してしまう。
《劇作家・宮沢章夫氏は、「トポスによって文学をとらえる思考はおそらく」あの人のあそこ「で完全に終結している。残されたのは、『任意の一点』によって構成された、どこでもなく、どこでもあるにちがいない土地、都市」だと書いている》(「Radio Hawaii」)。
小説家であった「あの人」について語る「Radio Hawaii」には、文学という言葉が直接登場する。著者は小説家ではない。そのせいか、小説に向かう彼は真剣でいてどこかうわの空に思える。文学をとらえるために残された方法、「任意の一点」を定めながらも、そのことによって小説を、そして文学をとらえようとしているのかどうかがわからない。なぜ映画をつくらなければいけないのか、という切実さのようには、文学に対する真剣さはない。小説を書くことは彼の「業」ではない、ということかもしれない。
だが青山真治の小説は、その他の、「文学」について考えぬいたと自称する小説よりもずっと、「文学とは何か」「小説とは何か」という問題を切実に突きつけてくる。私が苦しいのはそのせいだろう。いろいろな場所に連れていかれ、「文学」をめぐる無惨な様子を見せてはくれるが、そこから先へ連れていこうという意思やそこに至るまでに寄り添ってはくれないからだ。だがそれでいい、と思う。「文学とは何か」「小説とは何か」という問題を真剣に考えるなら、自分の「業」であると認めるなら、また別の「小説」を求めるか、あるいは自分自身で考えるしかないのだ。
《そのときは、許せ、子孫よ。ピース》(「地上にひとつの場所を!」)。
この一文で示された謝罪の言葉と無責任さに、「文学」に対する彼の態度を見たような気がした。