ブランドン・ロス LIVE藤井陽子
[ cinema , music ]
「人びとが無理やり世界にそぐわせなければならなくなったとき、彼らは今までになかった新しいものが見えなくなっている。そのような場所からわれわれが出て来るとき、それは創造的で、独創的で、奇怪なんだ。でも僕たちはそのとき何かを見つけるチャンスを得ているんだ。何かエキサイティングなもの、何か新しいものをね」──ブランドン・ロス
6月9日、LIQUIDROOMにてブランドン・ロス“コスチューム”バンドのライヴが行われた。それは期待を遥かに上まわる、身のうち震えるような体験だった。彼らへの情熱を抑えることはもはやできまい。
ブランドン・ロス(g, bj, vo)
武石務(b)
J・T・ルイス(ds)
ロン・マイルス(コルネット)
「有機的な呼吸」。彼らのしていることはまさにこれなんじゃないだろうか。音を発し、それを融合させあってできたハーモニーやリズムを、もう一度彼らの内にとり込み、それに反応し、また新たな音を発する。まさに呼吸。そこに現れる音や、音の絡み合い、次々に変化していくリズムやグルーヴは、二度と同じものにはならない。もちろん「ライヴ」だから、どんなミュージシャンがどんなに練習通りの演奏を予定通りにやったからって、それもただ一度きりの出来事であることに変わりはないけれど、コスチューム・バンドの演奏の一回性は、その遥か高みに達している、もはや次元が違うとさえ言っていい。彼らが生み出した音楽と、別の場所で生み出した音楽は、おそらくまったく違う生き物になるはずだ。
それを裏うちしているのが、彼らの「呼吸」だ。彼らのしていることがまさに一瞬一瞬の有機的な運動であること。「何かエキサイティングなもの、何か新しいもの」を生み出しているのはまさにこの運動によってである。
急ぐことなく深く休みなく繰り返され、ときどき熱く激しくなる呼吸。再び穏やかなリズムをとり戻し、彼らの内側と外側を行き来しあう呼吸。ブランドンは以前、ギターの音色と内なる声とのつながりが、彼にとってとても大切なことなのだと語った。その状態に至った瞬間には、内や外という枠はもはや意味を持たず、太く密なつながりをもったひとつの運動体がただ立ち現われてくるのだということが、ライヴを体験した後には沁みるようにわかる。ブランドンのギターは、あまりに様々な重さ、質感、弾けぐあい、響きを持っていて、それは(彼の)(内なる)声であり(なぜここに括弧がついているのかは、次号「nobody」に掲載されるブランドンのインタヴューを参照していただきたい)、耳を疑ってしまうほどの、多様な何か、何か新しいものである。それは武石務もJ・T・ルイスもロン・マイルスも然り、そして声の発露は彼らの呼吸によってなされているのだ。形式やコードやスケールのない即興、音の渦の中では、身を寄りかけるリズムはない、整った和音もない、聴いたことのないような不協和音(のようなもの)があふれている。でもそれは不協和音ではない、もっと別のものだ。「即興」と呼ばれてもそれは「即興」ではなく、別の名前をもつべき何かだ。即興は呼吸している。それはなまなましい。温かくて、懐かしい。そして最高に気持ちいい何か。
それはまだ名前を持たない。
と、書いてみたものの、ライヴ中はそんなことを考える余裕などあるわけがなく、ただ、彼らの呼吸に自分の呼吸を近づけたいのだ! 全身が耳になればいい! と、切に願っていた。彼らの演奏は琴線にあまりにも優しく激しく触れてくるので、コップにたっぷり張った水が僅かなふるえでこぼれるように、「わ」と声を発しただけで、内側の肉も魂もこぼれ出てしまいそうなくらい、感極まってしまった。
※引用は「nobody」19号に掲載予定のブランドン・ロスのインタヴューより抜粋。
「koolhaus of jazz Ⅱ with southern accent」
6月9日、LIQUIDROOM ebisuにて開催