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June 15, 2005

『ある夏の記録』ジャン・ルーシュ
須藤健太郎

[ architecture , cinema ]

 いま、ジャン・ルーシュの回顧上映が開催されている。以前、彼の映画を見たときにはあまりピンと来なかったのだが、『ある夏の記録』『人間ピラミッド』と立て続けに見て、すっかりはまってしまう。めちゃくちゃ面白いのだ。つい足繁く通ってしまっている。前に見たのは『メートル・フ』と『我は黒人』だったが、そのときはたぶん無字幕で、訛りに訛ったフランス語を少しも聞き取ることができず、それで楽しく見れなかったのかもしれない。今回は、英語字幕が付いているので理解の助けになる。でも、前は気づかなかったが、本当は字幕なんかなくても楽しめる映画ばかりだった。
 ジャン・ルーシュの映画は常にふたつのものの間を揺れ動いている。狂気と正気、日常と非日常、白人と黒人、ドキュメンタリーとフィクションなどなどの対立するふたつのものを、彼の映画にはたやすく見出すことができるだろう。しかし、ジャン・ルーシュの映画を見ることは、それら二項の対立するさまを見ることではない。それらが互いに関係し合い、突如としてほかの何ものかに変貌するさまを目の当たりにすることだ。ジャン=リュック・ゴダールはかつて「ルーシュの独創性はまさに、自分の俳優たちを登場人物に仕立てあげているというところにある」と指摘した。ジャン・ルーシュの映画では、「俳優たち」が「登場人物」へと変貌していくように、何か別のものが生み出され、観客はその瞬間を体験することになるのだ。ちなみにゴダールの先の引用はこう続く。「しかもこの場合の俳優というのは、言葉の最も単純な意味での俳優(acteur)、《行動しているところ》を撮影されているという理由だけで俳優である人のことである。そしてルーシュは、ロッセリーニにならってその行動(action)を可能なかぎり《論理的に》組み立てたあとは、その行動を撮るだけで満足しているのである」。
 エドガー・モランと共同で監督している『ある夏の記録』は、フィクションとドキュメンタリーという対立とその超克がもっとも明瞭なかたちで示された作品だろう。街頭で行ったアンケート、パリに暮らす若者たちの日常生活などをふたりは撮影する。「あなたは幸せですか?」「どんな生活をしていますか?」という問いかけに、最初は遠慮がちだった者たちも次第にあけっぴろげに自らの生活を語り始める。映画の後半、その上映会が開かれ、そこに映されていた自分たちを見てどう思ったか、という話になる。「あれは本当じゃない!」とか「あまりに露出症的すぎる!」など言ってみればありきたりの反応。だが、彼らの表情は真剣だ。だから、つい聞き入ってしまう。
 上映とその後の討論が終わり、ルーシュとモランはふたりで廊下を行ったり来たりしながら、そのことについて話す。「彼らの反応はどうだった?」「まっぷたつに分かれたのが、面白いね!」「君は見てどうだった? 感動した?」「……感動したよ」。自分で撮った映画に意外にも感動してしまったからなのか、モランは少し言い淀み、はにかみながら答えていた。
 だんだんと自分を開いて、何でも話し、時には涙まで流してしまう彼らを見ていて、映画を見ているこっちまで、ジャン・ルーシュの映画を見ていると、自分では意識していないが気づくとものすごく素直になってしまうのではないかと思った。例えば、ジャン・ルーシュの映画に映されるキリンを見ていると、キリンの首が長いということがとても不思議なことに思えてくる。本当に長いとも思った。

 そう言えば、先月に東京日仏学院で上映されたジャック・ベッケルの『七月のランデヴー』の主人公のモデルは実はジャン・ルーシュだという噂を思い出した。資金を得るために博物館に連日通い、パリを離れることに戸惑いを見せる友人たちを鼓舞してひとつにまとめ、アフリカに撮影旅行に出掛けるあの主人公だ。


「ジャン・ルーシュ 没後1年」
6月3日〜6月26日
東京日仏学院、日仏会館にて開催