『ジェリー』ガス・ヴァン・サント藤井陽子
[ cinema ]
『ジェリー』の「爆音」と聞いてバウスシアターに足を運ぶ人はきっと、ジェリーのたてる足音や吹き荒れる風の音やアルヴォ・ペルトの曲の微細な息遣いを爆音で体験するという期待に少なくとも胸膨らませて来るのだと思う。実際に私もそうだったのだが、それを体験してみると、足音や風音以上に、にぶい圧迫を受けて宙に留められたような無音状態の時間がより衝撃的に立ち現れてくることを発見した。「爆音」とは爆音によって静寂を発見することなのだ。それと何より特筆すべきなのは、『ジェリー』をシネスコサイズで見ることができる! という点だ。私はこの映画を1年くらい前に大学の教室で見たのだが、その時も、ライズXで公開されたときも、映写されたのはスタンダードサイズの『ジェリー』だったから、バウスシアターのスクリーンに広がる広大なランドスケープの中の豆粒のように小さいジェリーたちをスクリーンの右の端に見つけたとき(今まで見ることのなかったジェリーたちだ)その喜びは如何とも言いがたいものだった。
そのような歓喜の103分の冒頭、アルヴォ・ペルトの旋律を聴いた条件反射でゴダールの『時間の闇の中で』を思い起こしたからか、目の前に映し出されるランドスケープが徐々に白く何もなくなっていったからか、頭の端には『時間の闇の中で』の、白い布の四隅が機械によってめちゃくちゃに引っ張られる暴力的なシーンが何となくひっかかっていた。そんな状態で、塩湖の真っ白な空間をジェリーたちが彷徨っているのを見たとき、それがスクリーンの上を彷徨う私たちの視線の着地点みたいじゃないかという思いに取りつかれた。Tシャツをかぶったジェリー(マット・デイモン)のふたつの青い瞳がこちらをまっすぐに見据えるとき、そのふたつの瞳とふたりのジェリーのあいだにはゆるやかな点線が結ばれるようだった。彷徨うふたりのジェリーを追うことは、私たちがスクリーンに視線を彷徨わせることをそのまま意味するのだ、と。
もうひとりのジェリー(ケイシー・アフレック)が岩の上から降りられなくなったとき、そこには時間が堆積し、それがある地点まで積もりきった瞬間、彼は岩から飛び降りる。早巻きしたような落下の瞬間、彼を地上に引っ張る強力な力が目に飛び込む。ドスッとにぶい音がして、ジェリーの足と腕が変なぐあいに曲がる。そこに目に見えないはずのふたつのものが剥き出しにされている。堆積していく時間と、ひそかに存在する強力な力だ。
『ジェリー』についてこのように限定された言葉を語るとき、その豊穣な多くのものを取りこぼしていることは承知の上であえてこのように言おう。『ジェリー』には竹を割ったような簡潔な部分も確かにあるからだ。『ジェリー』という時間を体験することは、映画の上に降り積もった演出や物語らのもろもろを振りはらって見えてくる基本的な運動——時間が堆積すること、力が働くこと、視線を彷徨わせること——を目の当たりにすることを意味する。そこでは骨格と必要最低限の肉だけが映画を運動させている。シネスコサイズのスクリーンいっぱいに映された広大なランドスケープのなかのあらゆる力にもまれて、ふたりのジェリー(私たちの視線)が這い回るとき、その単純な運動は、単純ゆえに心骨を削る命がけの冒険となるのだ。その事実に打ちのめされてしまう。
boid presents Sonic Ooze Vol. 5
「爆音レイト 4 weeks」
6月11日〜7月8日
吉祥寺バウスシアターにて