『乱れ雲』成瀬巳喜男梅本洋一
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生誕100周年を記念してディジタルリマスター化が進められている成瀬のフィルムがスカパーの日本映画専門チャンネルで連続上映されている。この日は、別プログラムの加山雄三特集とのからみで、『乱れ雲』が放映された。
他の加山プログラムには『エレキの若大将』、『椿三十郎』などが含まれていて、冒頭には今年68歳になる加山雄三のインタヴューが添えられていた。ひたすら黒澤明のすばらしさを語る加山の言葉の直後に、成瀬の世界が始まるのは奇妙な気持ちがした。
だが、そんなことはすぐに忘れ、久しぶりに成瀬の世界に没頭する。何度も見ているフィルムだが、久しぶりに見ると別のことに気がつく。それはこのフィルムが撮影された1967年という年に関わることだ。司葉子夫妻が住む、外務省の官舎、司の姉である草笛光子夫妻が住む51Cの公団住宅、そして彼らがコーヒーやビールを飲む、モダンなビルの中の喫茶店。60年代的な風景が建築によって作られ、それが後半の青森や十和田湖畔の自然と伝統的な日本建築の風景と対比されている。
51Cの団地にもちゃぶ台が存在し、人々は座って会話をし、虚飾を廃したモダンな箱形のビルが高度成長期の日本の都市の風景を形成していた。アメリカ転勤が間近に迫っている「国際化」した通産官僚である司の夫、そして商事会社に勤務する加山。加山の運転するクルマが司の夫の命を奪ったことで発生する取り返しのつかない「記憶」。物語は伝統的な青森と、「記憶」を欠いた東京の間に見事に整理されていた。
だが、そうした背景は、フィルムのラスト近くで、タクシーに乗った加山と司が十和田湖の近くでクルマの事故を見たあたりから、もうどうでもよくなる。完全にこのフィルムの中へ入り込まざるを得ないからだ。加山がラホール転勤になる顛末もあるけれども、僕らは、この別れなければならないふたりの世界に浸るだけだ。ふたりのいる旅館に事故で怪我をした夫が運び込まれ、玄関を飛び出した妻が「あなた」と声をかけるのを2階の窓から加山と司は見ている。過去は、記憶は、払拭することなどできはしない。ふたりと共に僕らもそう納得する。「ごめんさい」と泣き崩れる司と共に、僕らは何度も号泣したことがあるが、今日もまた、同じ、あの瞬間に、僕は泣いてしまう。加山の演技の稚拙さなど気にならない、否、その稚拙さはまるで彼が持っている若さの表象でしかなく、成瀬はそれを利用している。
セルジュ・ダネーは、映画が僕らを見ている、と言った。それは映画と僕らには関係があるということだ。成瀬の感情の洪水の中に僕らは浸り込み、その渦の中に取り込まれてしまう。司と加山の1967年の夏は、2005年夏の僕らにも関係がある夏だ。