『シャーリー・テンプル・ジャポン・パート2』冨永昌敬小峰健二
[ cinema ]
冨永昌敬の作品を見ていると途方もない拡がりを感じてしまう。たとえばそれが、江古田という場所で撮られていたとしても、マンションの一室で撮られていたにしても同じである。閉じられた空間であるはずの場所を果てなく拡散させ、映画自身の外壁を取り払う。そのような拡散作用が映画全編に漲り、観客は幻惑し、冨永にやられてしまうのだ。
たとえば『VICUNAS』では、日本語、英語、はては奇怪なタコ島語でダイアローグは拡散し収拾がつかない酩酊状態をさまよっていた。英語を音として響かせるならまだしも、タコ島というどこにあるかも知れぬ土地の言語を役者に発話させることで映画は外部に触れていく。それは『テトラポッド・レポート』も同じで、車のラジオから聞こえてくるリンカーンの肉声が映画に何の脈絡もなく介在してきては、観客の想像力を途方もないところまで連れて行く。むろん、映画を拡散させる要素として、『亀虫』の「もうひとつの部屋」があったし、『オリエンテ・リング』の地図やDVDという言葉の響きがあった。これら脈絡のないようなディテールが映画に広がりを持たせている。そして、このような、映画を拡散させる演出の力学こそが冨永の作家性になっているのだろう。
もちろん、ほぼ俯瞰のワンショットで撮られ、台詞が響かない、冨永にあっては禁欲的にも思える「シャーリー・テンプル・ジャポン」シリーズ「パート1」でもこのような拡散性は認められる。そもそもこの作品の舞台は「静岡県ワシントンDC郡ウォーターゲート村」というどことも知れぬ場所である。その村長選立候補者の演説がオフで響き、その立候補者も選挙カーも見えないのだが、その奇奇怪怪な演説も相まって画面の外へと映画は拡散していくだろう。観客には見えないはずの薬局や銭湯、ビデオ屋、果実のなる木々でさえ、あたかも存在しているかのように感じるから不思議だ。しかし、それこそが元来「演出」であり、換言すればユーモアなのかもしれないのだが、見えないものを「演出」によって可視化するその確かな腕を冨永に感じずにはおれない。その証左に冨永は数千円台の製作費をプレスに記し、腕=ユーモアさえあれば、少々の金銭でも拡がりある映画を撮れるのだと誇示しているかのようだ。
だが、この「シャーリー・テンプル・ジャポン」シリーズにあって特異なのは、そのような空間の拡散性ばかりではない。空間の壁=フレームを無にする先述の拡散作用が、時間軸にまで及んでいるのである。それは、「パート1」から「パート2」への変遷を見れば容易に指摘できることなのだが、たとえば「パート1」で極度に制限されていたカメラワークは「パート2」に至ると、不自由から解放されている。ショットは割れ、「パート1」で皆無だった照明が役者の顔を甘美なものとしている点も見逃せない。さらに、「パート1」で杉山彦々によってフレーム外から持ち込まれた梨は唐突にスピーカーへと変更されているのだが、これは「パート1」になかった「音声」を映画が手にした隠喩に他ならないだろう。実際、そのスピーカーは修理され、無音で垂れ流されていたポルノ映像に音声をもたらすことになる。この一連のシークエンスは「パート1」から受け継がれることで、ユーモアと共に映画の歴史を表出しているのだ。つまり、「シャーリー・テンプル・ジャポン」シリーズの「パート1」から「パートt2」への変遷とは、映画の変遷にほかならず、同時上映されることで笑いばかりか映画史までをも垣間見せてくれる。
『シャーリー・テンプル・ジャポン』に見られるように、冨永作品は空間上にも時間上にも拡散していく。この拡散する力学は、もちろん、商業映画デビュー作『パビリオン山椒魚』まで受け継がれるだろうが、その来るべき傑作のためにも「シャーリー・テンプル・ジャポン」シリーズ同時上映を見逃さないでいただきたい。長々と書いたが、つまりは、必見! 必聴! ということだ。
『シャーリー・テンプル・ジャポン・パート2』
8月27日より、池袋シネマ・ロサにてレイトショー公開
●opaluc公式サイト:http://www.h7.dion.ne.jp/~opaluc2/