『シンデレラマン』ロン・ハワード藤井陽子
[ book , cinema ]
「人生をこの手で変えられると信じたいんだ」。
この映画を見て、奇跡を信じたいと思った。それから希望を捨てないで生きなくちゃいけないと思った。
強力な右ストレートを武器に持つ前途有望な若きボクサーのジム・ブラドック(ラッセル・クロウ)が、右手の負傷をきっかけにみるみるうちに敗戦と怪我と貧困の悪循環に陥るところからこの映画は始まる。時は1929年、世界大恐慌の年だ。まるでアメリカの姿を投影するかのようにジミーはどん底でもがくのだが、ある奇跡の一夜ののち、彼は奇跡のように這い上がり、やがてヘビー級世界チャンピオンのマックス・ベアと対戦するまでの強さを獲得していくのだ。
その強さは、愛する家族との生活のため、ミルクのためだとジミーは言う。愛する妻や3人の子供たちと共にいるジミーの姿とその誠実さには、純粋に感動してしまうし、彼の金や名声に溺れない精神にも気高さを感じる。だが真に胸打ったのはそのことではなかった。「リングの上での苦しみなら耐えられる」。そう言ったジミーにとっての「ボクシングという場」のもつ吸引力、そのような場所とジミーの関わりかた、そこに惹かれた。マックス・ベイとの対戦のR15、ジミーはスコアでは勝っていたのだから、わざわざマックスの至近距離で殺人拳を浴びる必要などなかった。トレーナーのジョー(ポール・ジアマッティ)が止めたにもかかわらず、ジミーがマックスのもとに飛び込んでいったとき、彼にとってのボクシングは、愛する家族のためでも、純粋に生活のためでもなくなった。ジミーはジミーのために拳を打ち込み、拳を浴びていたのだ。言葉をかき消すようにバシッバシッと響く拳の音と、大観衆の歓声と、めまいを起こすような強烈な光。ジミーの主観ショットが時々挿入され、そこには白くゆがんだ世界が夢のように映し出されていた。そこに含まれている恐怖と恍惚感が、ジミーをリングの上に見えない糸で引っ張っている。そしてジミーはその場所とその場所に惹かれる自分に対しても誠実だったのだ。その姿は圧巻だった。
「リングの上での苦しみなら耐えられる」。ジミーの言葉は感慨深くて、しばらく反芻してしまった。
2時間半あまりの映画は終わった。何より心惹かれたのはボクシングシーンだったが、彼らの「奇跡」や「希望」、「愛する家族」、「誠実さ」、「気高さ」……そういったものも、なんだか沁みた。そのような言葉が溢れている人生なんて本当にあるのだろうか、ウソじゃないだろうか、と思いもする。だがそのような人生を「信じたい」と思わせる底力がこの映画にはあった。その底力は、スタジオシステムがふるっていた頃のハリウッド映画が、私の胸を打つときのそれをふと思わせるような底力だった。