「横尾忠則 Y字路から湯の町へ」藤井陽子
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なんておもしろい絵を描く人なんだろう、横尾忠則って人は!
ところは湯の町・伊東、池田20世紀美術館の開館30周年を記念して企画された展示会だ。横尾の「Y字路」シリーズの最新作である伊東市のY字路を描いたものに、「銭湯」シリーズを加えた60点の展示だ。「Y字路」シリーズは以前、東京都近代美術館で開かれた「森羅万象展」でも見ることができたが、その時よりも集中しておもしろく見れた。「森羅万象展」の時の「Y字路」シリーズは膨大な数の作品の一番最後に展示されていたから、くたびれてしっかり見れなかったのだと思う。
池田20世紀美術館の下の階に続く階段を降りると、目にも鮮やかな銭湯の光景と、光をいっぱいに湛えたY字路の光景が飛び込んできた。まずは「Y字路」だ。
そもそも「Y字路」という主題が興味深い。その立ち位置から、右に行こうか、左に行こうか、はたまた分かれ目に店を構える「床屋」のドアを叩こうか、きびすを返して引き返そうか、そこにはいろいろな選択肢とドラマがはらまれている。描かれているのはすべてY字路で、場所が違ったり、時間や光が違ったり、雨が降っていたり、キリストが歩いていたり、列車が走っていたり、真っ赤に染まっていたりする。その本当にありそうな風景の中に、目に見えない何ものかが描きこまれているようだ。「目に見えない」とはおかしなことを言った。絵は目に見えるのもじゃないか。いいや、それが違うのだ。横尾の絵の場合は。
例えば、真夏の昼のような強い光線が道いっぱいに射して、緑の木の葉を強いコントラストがつらぬいているとき、そこに日差しの強さ、だるさ、高い空と地面のあいだのなんにもない感覚、あんまり明るすぎて怖い感じが、むきだしになっている。Y字路が雨なのか血なのかわからないが何かで濡れそぼっているところには、生ぬるさと、孤独と、安堵が渦巻いている。そのどちらにも目に見えるものを超えたもの、超越的な何かが塗りこめられているようでとても恐ろしい。このようにうまく捉えられないものをアウラと呼べばいいのだろうか。そこには、「ただじゃ済まない」ものが渦巻いている。
「湯の町」はどうだろう。身をよじって体を洗い、手ぬぐいを口にくわえて湯につかる。鏡にうつった姿を見て、人の体に手を伸ばす。皆なんだか逞しく、銭湯の喜びをその体いっぱいで表現しているみたいだ。湯の中へ水泳選手のように飛び込みをしている人もいる。その唐突なおかしさはいかにも横尾らしい。銭湯でしゃべる声が湯気の中でカランカランこだまするような雰囲気が、「銭湯」シリーズからは伝わってくる。ほんとうにカラカラ笑いたい気分になってしまう。
そのなかの一点、真四角の湯船を中心に据えて、そこへ数人の女が入ろうと、そして出ようと、片足を突っ込んでいる絵、この絵が他の銭湯の雰囲気とどこか異にしていたように思う。入ろうか、出ようか、浸かっていようか、こちらから入ってそちらから出ようか。その風呂には「Y字路」に見られた数多の選択肢が、さらに四方八方に展開されていた。女たちが通過する四角い場所が、なにやら超越的な場所であることを、Y字路の「ただじゃ済まない感じ」が思い起こさせた。この不気味さとは、きっとどんな選択肢もあること、あまりに開かれていて底(天井)がいつまでたっても見えないことに拠るのだと思う。Y字路はもしかしたら、前進すればファスナーを閉めるように両側の道が「床屋」を飲み込むかもしれないし、きびすを返したらそこにはまたY字路があるのかもしれない。そのような縛りのない空間に立たされると、まるで重力がなくなって、体が四方八方に伸びていってしまうようなとりとめのなさを感じ、不安になってしまう。それは同時にものすごい快感でもあるのだけど。
「Y字路」にも「湯の町」にもすっかり魅了されて、池田20世紀美術館を後にするころには足取りもふわふわと変わってしまったが、近くの蕎麦屋に寄って蕎麦をすすったら、ちゃんとすすれたので、ああ蕎麦がすすれる、と安心したのだった。