『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』リティー・パニュ中村修吾
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出来事と評価との間には隔たりがあるはずだ。ある出来事が起こる。そして幾らかの時間を経てその評価がなされる。出来事と評価との間には、時間的な隔たりがある。また、出来事が起こった場所と評価がなされる場所が別の場所であるという意味において、空間的な隔たりがある。『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』は、出来事と評価との間、言い換えれば、時間的空間的な隔たりの中に存在するものを記録しているように思う。
カンボジアでは、1975年から1979年までのポル・ポト政権時代に大規模なジェノサイドが行われ、知識人階層をはじめ多くの人々が犠牲となった。犠牲者となった人々の数は100万以上とも言われるが、正確な数字は定かではない。おそらく十分な記録が存在しないためであろう。リティー・パニュがこのフィルムで行ったのは、かつての収容所で起こった出来事に関係する記録を積み重ねることでもある。
リティー・パニュは、かつてジェノサイドの実行にあたった収容所の職員と収容所に捕らえられた囚人とを収容所で再会させ、かつて起こったことの再現を行わせる。かつての収容所職員が、声を荒げて囚人に命令をしながら牢屋の見回りを再現してみせるさまが長いワンショットによって捉えられる。身体の記憶というべきか、20年以上昔に同じ場所で行っていた行為を身体は覚えている。乱暴な身振りで囚人に目隠しをつけ足かせをはめ、通路の窓から囚人に向かっておとなしくするようにと怒鳴りつける。また、闇夜の森の中では、収容所から連れ出した囚人たちを殺害する様子を再現する。
かつての囚人は、拷問を逃れるために偽の自白をし、知っている人物の名前を政治犯として挙げたことを告白する。名前を挙げられた人物を彼がその後目にすることはなかったという。彼の自白をもとにして「政治犯」が捕まり、殺害されたのだ。
リティー・パニュは努めて客観的にこれらの様子を捉えており、監督である彼が元囚人や元職員に対して罪の有無の評価を下すことはない。彼は極めて熱心に記録を作っている。彼が記録するのは、元職員がどのようにかつての身振りを再現するかであり、また元職員と元囚人が共になってかつて起こったことを明らかにしていく様子だ。
元職員が再現する身振りが、妙に強く印象に残った。その身振りは、演技をしながらセリフを棒読みしているような、あるいは胸のうちに押しとどめてはいられない言葉を一気に吐き出そうとするような、そんな様子だ。彼が行う身振りはかつての収容所で行われた身振りに極めて近いが、それと同じものではありえない。また、彼はその身振りを行ったことに対する評価を加えることを避けながら、自らの過去の身振りを忠実に再現する。彼の身振りが妙な印象を残すのは、それが出来事と評価との間の場所でなされたものだからなのかもしれない。
リティー・パニュはインタヴューの中で、「記憶」と「忘却」の間の戦いの不平等さに触れながら、自分は記録を残した上での忘却を選んだと述べている。「記憶」と「忘却」の間の戦いが演じられるのは出来事と評価との間の中においてなのかもしれないと思うと同時に、このような記録を貴重だと思う。