« previous | メイン | next »

August 3, 2005

『亡国のイージス』阪本順治
梅本洋一

[ cinema , cinema ]

 この種のフィルム──こうしたジャンルをどう呼べばいいのだろう?──に極めて忠実な作りで最後まで観客を引っ張っていく。イージス艦が北朝鮮ゲリラに乗っ取られ、政府への要求が叶わないときは、1000万人以上が死亡する可能性のある武器を東京に打ち込むという物語。自衛隊の全面的な協力によって、イージス艦もジェット戦闘機も本物が稼働している。つまり、最後の最後に主人公(真田広之)の個人的な力によって、武器が発射されるのを阻止するまで、緊張感が持続することになる。
 もちろん物語の背後には、敗戦60年と憲法改正論議の沸騰する日本の現在があるのだが、このフィルムを見る限り、そんなことはどうでもよく、つまり、北朝鮮ゲリラや日本の将来などほとんど関係なく、単に、個人的な力で武器の発射が阻止されるかどうかだけが問題なのだ。つまり、これは山根貞男が言うとおり、「アクション映画」なのであり、最後にゲリラのトップ(中井貴一)がイージス艦のマストに登る件など、ウォルシュの『白熱』におけるジェイムズ・キャグニーを思わせるほどに、ジャンルのもつ形態的な力に忠実なのだ。その意味で、このフィルムは実に安心してみることができる。だが──問題はここからだ──、それほど広くないイージス艦の内部を舞台にし、狭い廊下をステディカムが行き来しながら撮影されるサスペンスはやや類型的なものになってしまい、艦と艦がぶつかりあう海戦のシーンで砲弾が命中するかどうかは、コンピュータの画像の上でまるでスターウォーズのように見える。ラストの艦内での激闘シーンを除いて、だから、速度はひたすら編集によって生み出されている。そして、もうひとつの問題は、もしこの種のフィルムの最高傑作がオルドリッチの『キッスで殺せ』だとすれば、ラストでは、結局、「謎の箱」が爆発していた。疾走感と得も言われぬ無力感が充満するラストと、『亡国のイージス』のまさにジャンルの規則に単に忠実なラストの差異。フィフティーズのフィルムの暗さがそれ以前のフィルムのハッピーエンドへの反作用だとしても、21世紀のフィルムが持つ、現実をベースにしつつ、現実と関わりはなく、映画のクラシックとだけの関わりをどう考えればよいのか。阪本順治ならば、この程度の実力は十二分にあるだろう。ぼくらは常に『トカレフ』以降の阪本の映画を期待しているのだが……。

丸の内ピカデリーほかにて全国ロードショー中