« previous | メイン | next »

August 6, 2005

『せかいのおわり』風間志織
月永理絵

[ cinema , cinema ]

 映画が始まる前にプレスシートのあらすじを読んだ限りでは、ありがちで、陳腐な恋愛映画にしか思えなかった。
 幼馴染みの男と女がいる。彼氏に振られる度に自分のもとに泣きついてくる女「はるこ」を、「慎之介」は何も言えないまま一途に思いつづけている。「はるこ」は「慎之介」の気持ちをわかっていながら、曖昧にごまかしている。そしてふたりを見つめるバイセクシャルの「店長」は、「慎之介」に思いを寄せている……。
 少女マンガのような話である。だが実際には、このありがちな話がうまいこと機能していて、設定の陳腐さを忘れさせてくれる。『せかいのおわり』は、普通の恋愛映画として見ただけでも、かなり出来のよい作品だ。
 風間志織は、この映画は一種のテロ映画であり、突然理不尽な暴力を振るわれ、どんどん悪い方向に進んでいく世界の中で、「私は戦わない」という意思表示をしたかった、と言っている。このテロ行為とも呼べる暴力は、映画の中で何度も登場する。「はるこ」にとっては、恋人から突然切り出される別れがもっとも卑劣なテロ行為である。一方「慎之介」は、「はるこ」のわがままさによって、常に傷つけられている。そして「慎之介」がナンパしてきた相手が、熱帯魚の泳ぐ水槽にアイスの箱を投げ込み、真っ赤なアイスが水の中に充満していくシーンは、この映画の中でもっとも暴力的ですばらしいシーンだ。
 いくつかの映画で体験するような、スクリーンの向こうから、こちらに向けられる暴力がある。それは現実の「世界」を脅かす驚きであったり、音や映像による身体的な衝撃でもあったりする。『せかいのおわり』における暴力は、観客を驚かせるほどの強さを持っているわけではなく、あくまで映画の中だけにとどまっている。爆発しそうになった怒りや暴力は、たとえば「店長」が言う平和主義、博愛主義というものによって、直前で押しとどめられてしまう。そしてそれがこの映画の「世界」の小ささでもある。今は幸せだけれど、いつか来る終わりが恐いと泣く「はるこ」に、恋人である「中本」という男は「見えないものを見てはいけない」と教える。今目の前にあるものだけを見ていればいい、と。「見えるものだけを見る」という「中本」は、だからこそ、また別の女が目の前に現われればあっさりと「はるこ」を捨てる残酷さを持ち合わせているわけだが、この「見えるものだけを見る」ということが、この映画の小ささの根本にあるのではないかと思う。
 もちろん映画は「見えるものだけを見る」ということからしか出発しないが、たとえば「はるこ」が夜の道路で感じた、「世界中でたったひとりかと思った」という感覚や、落とし穴に落ちたときの「これが世界の終わりかと思った」という感覚の、さらにその先に見えるものを、私は見たいと思った。落とし穴の穴から覗く青空や、穴の中で寄り添うふたりの顔ではなく、穴の闇の中に見える何かを見たいと思った。見えないものの中にこそ何かを見る。それが発見ということであり、映画のもつ暴力でもあるのだ。「幸せだけどちょっと寂しい」と呟く「店長」の平和主義・博愛主義よりも、水槽の中に投げ込まれたアイスのような、怒りに満ちた暴力によって、時に「世界」は見えるのだと思う。

9月、渋谷シネ・アミューズほか全国順次ロードショー