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August 9, 2005

『現代建築のパースペクティブ──日本のポスト・ポストモダンを見て歩く』五十嵐太郎
梅本洋一

[ book ]

igarashi.jpg ポストモダン以降の現代建築の解説書としてはとても適切にまとめられている。誰よりも多くの建築を実際に見て歩いている五十嵐太郎の姿勢は、本書の元になった多くの雑誌や彼のサイトで読むことができる。好奇心にあふれた姿勢と、適切な解説は評価できる。だが、ここ最近の五十嵐のキーワードである、村上隆から想を得た「スーパー・フラット」の全面肯定は、たとえ、その言葉が現在の都市の特徴を極めて十全に表現しているにしても、納得することができない。飯島洋一vs.五十嵐太郎のユニット派をめぐる論争があったが、「ユニット派は、志が低い」といった単純な事柄が、その基底にあるばかりではないだろう。
 五十嵐の活発な好奇心と適切な解説に多くを学びながらも、彼の論拠に全面的に同意することができないのには、ふたつの理由がある。まず六本木ヒルズを顕揚=批評するとき、彼の筆は、その全体のデザインの保守性に向かうが、多くの場所を地上げし、巨大な高層建築を建てることで、東京に緑を取り戻そうという思考法についての批評性がないことがある。もちろん、かつてそこにあり、六本木ヒルズによってなくなったWAVEやCINE VIVANTへのノスタルジーが私にないわけではないが、それ以上に、このサイトにかつて掲載した文章にも書いたように、高層化によって広場を作りそこに緑地を作ろうという方向性は、ストリートを消すものであり、そうした場所では、アクティヴな芸術活動は行われない。どのタワーにも現在的な先端の産業によって、流通した金銭を懐に入れた企業がテナントとして入居し、その高いカーストを文字通りの高層階によって誇るだけだ。デザインのないタワーによって、人工的な広場を作り、その広場がストリートを駆逐するとすれば、そこから芸術の発信などされるはずがない。次の理由──おそらくこちらの方が重要だろう──、それは批評とは、その対象を詳細に分析しつつ、その対象が因ってたつ原理にまで足を踏み入れ、その探り当てた何かを含めて明瞭なコンセプトを提出すべきものだ。建築が常に為政者の側にあり、資本の側にあることは理解しているが、それでも、森美術館で「文化活動」が行われていることで、風景に対するこのビルの暴力的な介入の免罪符になるわけではない。小林信彦は、関東大震災、戦中の爆撃、東京オリンピック、バブルといままで4度の「街殺し」があったと書いているが、現在、東京の中心部で起こっていることは、その4度の「街殺し」と同等か、それ以上の規模なのではないか。中曽根の民活以来、為政者の側が計画的に街並みを変えようとしているのではなく、そのときそのときの突出した資本が、その力で(そしてその力を信じている側は、その力が作用する方向を正しいと考えている)風景を変貌させている。僕らそこに住む住民は、その力に賛同し、高いカーストへと自らを導く努力をして、タワーの高層階の住民として、地上の民衆を見下ろすことを選ぶか、風景の変貌を嘆きつつタワーの展望台に料金を払って登り、自らの暮らす住居の卑小さを感ずるか、どちらかしか選択肢がないのだろうか。鳥居坂の国際文化会館は、そんななかで取り壊されつつある。