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August 10, 2005

『リンダ リンダ リンダ』山下敦弘
梅本洋一

[ cinema , cinema ]

 物語としての「青春映画」の構造を明瞭に備えたシンプルなフィルムはおおかたの好評を集めているようだ。文化祭、バンド、ブルーハーツのコピー、韓国からの留学生……。もちろんタイトルを見ただけで、いろいろな出来事を乗り越えて、女の子たちは最後に「リンダ、リンダ、リンダ」と熱唱し、体育館は興奮の渦に包まれることは予想されるし、事実、予想通りなのだ。ギターの女の子の手の骨折や、ヴォーカルの子が喧嘩して韓国人留学生がヴォーカルをやることになり、「仲間」を発見する……。すべては予想通りだし、「想定の範囲内」だ。
 だが、もちろん『リアリズムの宿』の山下敦弘のフィルムは、物語として「想定の範囲内」でありながらも、山下敦弘という映画作家としての「想定の範囲」もある。時間との戦い──青春映画とは常には時間との戦いだ──もあるけれども、女の子たちはどこかのどかで、時刻が迫っているのに簡単にうたた寝をして、時間に遅れてしまう。あわてないのか、平然としているのか、そんなことを大して重要だと考えないのかは知らないが、速度としての時間をまったく体験しようとしない。今しかないつかの間の時間だから、疾走するのではなく、だからこそ、単にうたた寝をしてその時間をやり過ごしてしまう。集合時間に大幅に遅れ、大して練習もしていないのだが、誰でもが乗れるブルーハーツだからか、体育館は縦のりの渦。でも後ろの方には、演奏など関係なく、遊んでいる子供たちがいる。この映画作家は典型的な青春映画に自らを刻印している。疾走するはずの青春映画が、トライブ感(だけ)が特徴のブルーハーツの音楽が、睡眠や雨や夜や食事──これらはとても丹念に描かれている──によって遅延され、引き延ばされ、一応のカタルシスはあるのだが、それもある程度のものに留まってしまい、生きていることを長い長い直線だと考えれば、そんなカタルシスなど、1ミリ程度の起伏でしかないように見える。雨が降ることと、「リンダ、リンダ、リンダ」の熱唱を比べれば、突然の雨のほうが勝っているようにも見えてしまう。
 山下敦弘のフィルムとはそんなものなのだ。ぼくはもっと疾走する方が好きだけれど……。