『空中庭園』豊田利晃結城秀勇
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直木賞の候補にもなった角田光代の小説を原作としたこの映画は、郊外の巨大なマンションの一室を舞台とする。テーマパーク兼ショッピングセンター兼レストラン街であるような場所、「ディスカバリーセンター」を中心とするこの街で、主人公である絵里子(小泉今日子)は、「理想の家族」を作り上げている。
マンションの遠景から、何百という同じかたちの部屋の中の任意のひとつへ向かって一気にクロースアップするショットが物語るように、そこは不穏なまでの透明性が支配する場所である。その透明性こそが、小泉今日子の理想とする家族における、至高の法則だ。ベランダの家庭菜園にも似た、ガラス張りの、隠し事のない家族。
この映画の広告写真はホンマタカシが担当しているのだが、彼の写真に写る場所を、かつて倉石信乃は「純粋な郊外」と呼んだ。「そんなことは取り立てて言うべきでもない「ふつう」であり、だからこそ郊外とは「いま」なのである。少なくとも「純粋な郊外」とは、拡張すべくもない、ただの「いま」しかない」(『反写真論』)。過去を隠蔽することでかろうじて「理想の家族」を囲い込んでいるこの映画の登場人物たちが住む場所こそ、「純粋な郊外」と呼べそうでもある。しかしながら、この場所が常に、産まれた子供が高校生になるまでの時間──約15年──をはらんでいるゆえに、また登場人物たちが始めから最後まで表面的な起源──自分がそこで生を受けたという家庭内のいわば「伝説」上の場所であるラブホテルの一室、いまとなってはありふれてすりきれた「郊外」がまだ新品で光り輝いていた時間など──を志向するがゆえに、『空中庭園』の舞台は「いま」を映し出す「純粋な郊外」とはなり得ず、極めてノスタルジーに満ちた場所となる。
だが、監督の豊田利晃には、映画化に際してそもそもそんな問題を深く掘り下げる意志など、はじめからなかったのだと言うこともできそうだ。前作『9 souls』が9人の男たちを描く逃走劇だったから、今回は女性のやりとりを描くのだというのが彼の今回とった演出法だとしたら、その部分では彼の目論見は成功している。
永作博美、大楠道代らの女性陣も良いが、なによりも小泉今日子の存在が大きい。彼女は自らの過去を隠蔽するために、ひとつの透明な箱を作り上げた。その箱の危うさ、彼女が隠蔽したかったものは、映画の序盤から透けて見える。やがてそれが暴露されることは誰の目にも明らかだ。実際、映画の中盤過ぎに、あっけないほど簡単にカタストロフはやってくる。はじめは、理想の自分を演技する女を「演技」していた小泉今日子は、そのカタストロフの到来とともに、仮面がはがれて狂った本性を見せる女を「演ずる」のだ。だが、彼女が作り上げてきたものがすべて跡形もなく崩壊するかに見えたその暴露の後も、またすぐ次の場面から何事もなかったかのように、日常は反復し出す。
それ以後のシーンにおいて、観客が目にするのは、小泉今日子の演技する姿ではなくて、彼女の存在そのものだ。たとえ回想シーンで、ジャージに身を包んだ高校生時代の自分を演じようとも、そこにいるのはまちがいなく今年40才を迎える小泉今日子の姿だし、血の雨に覆い隠されようとも画面に響くのは疑いなく彼女本人の声だ。
物語の連なりが彼女の「本当の」過去を再構成していくよりも速く、私の意識は「小泉今日子」という現実のひとりの女性に向けられていく。家族の不透明さを受け入れることになる彼女の役柄のキャラクター造形よりも、はじめから私にとって不透明な存在でしかないような、彼女個人の歴史を持った「小泉今日子」が、その姿を「透明」なまでにスクリーンに映し出す終盤の10分間が素晴らしい。彼女が職場からバスに揺られて帰ってくる、ただそれだけのシーンは、この映画の中のどんなエピソードより強く、美しい。