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August 21, 2005

『ヒトラー〜最後の12日間〜』オリヴァー・ヒルシュビーゲル
影山裕樹

[ cinema , sports ]

 この映画の中ではアウシュビッツはまったく出てこない。そして、それがむしろこの映画の慎重さをより的確に表現している。確かに、ドイツ国内でヒトラーを好意的に描きすぎているという批判があるのは当然かもしれない。ブルーノ・ガンツ扮するヒトラーが主人公の秘書や愛人に接するあまりの優しさは、はっきりいって私たちからすれば、尊敬するに値する、あまりに人間的な振る舞いに見える。そしてその手の神経質な震え、ヒトラーが「プライヴェート」から「総統」へと変貌する瞬間にみせるヒステリーも、非人間的であるよりは、人間的な二面性でしかない。この映画は奇しくも、その限界まで抑制されたタッチで、観客の欲望(この映画を見に足を運ぶ多くの人に共通するだろう)——つまりヒトラーの中に「悪魔」を探ろうと躍起になる観客のそれ——を限界まで昇華させないという、映画のダイナミズムの捻出に成功している。誰しもがこの淡々と進む3時間の中で、ことあるごとに「ユダヤ人死者600万人」の数字を想起しながら見ていくに違いない。この心優しく、部下の離脱に怒りを噴出させるひとりの男に好意を抱き始めそうになる瞬間に、である。もしもその瞬間にナチスの敵(ユダヤ人)の大量の死体や、おびえた顔が画面に割って入ってきたら、観客はきっとその時に満足してしまうだろう。「ああ、やっぱりヒトラーは悪魔なのだ」と(ここで描かれるほとんどの死体はドイツ人のものであるが、だからといってこの映画がナルシシズムに陥ることはない)。

 アウシュビッツのそのあまりに言葉に尽くすことのできない野蛮さには、語るべきことは確かに何もないのかもしれない。しかし、ジョルジョ・アガンベンが指摘するように、アウシュビッツは今もなお、現代的であり続ける。私たちがヒトラーのあまりの「人間らしさ」の中に、そして彼をとりまく側近たちのあまりの忠誠心の深さに感動すら覚えることから、目を逸らしてはいけない。映画の中にユダヤ人が登場しないというその不均衡さ、偏りこそが、当時のナチス関係者の世界なのである。ガス室など影も形もなく、そこは今にも陥落しそうなベルリンの、死を目前とした多くの同胞の負傷兵たちが転がる、アリの巣のように狭く入り組んだ、地下司令部なのである。主人公の秘書がヒトラーに「ベルリンから逃げなさい」といわれたのにもかかわらず「私もここへ残ります」と口にしてしまう時のその表情はただただ美しい。ユダヤ人大量虐殺という、言葉に尽くすことのできない野蛮さは、ここではあえて完全に切り離されている。ヒトラーのふたつの顔、「優しさ」と「総統」の間より限りなく深く、決定的に。

 狂気に対して、その結末としての悲劇は常に無関心である。野蛮さを自らから完全に切り離し、画面の中にあてがおうとする心性こそ、現代的な我々の心性である。そしてこの映画は最後までそれを拒む。映画はあくまでひとりの人物の没落に寄り掛かっているだけだ。その結果としての悲劇は背後に退いている。私たちの狂気が、何を結果としてもたらすかなど、到底測りえないという風に。ヒトラーと私たちの間に線は引かれていず、引かれているのはあくまでも、私たちと、私たちの内部の非‐人間なのだ。そして、同胞の死のみが身近に繰り返されるベルリンと、遠く離れた、強制収容所の間に引かれているのだ。

7月9日、シネマライズほか全国順次ロードショー