「鬼石町多目的ホール」妹島和世藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所)
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全周囲を透明ガラスのスキンとする形式、透明ガラススキンの良さを引き出す平面形状の考えかた(平面の奥行きが変わること=屋根の形状の変化であり、視界の抜けかたの変化が抜群にオモシロイ)、半地下を大胆に生かした断面構成、屋外空間と屋内空間とがお互い領域をとりあうようなあぶくの中にいるような平面計画、建物と残余空間のバランスの良さ(起伏ある敷地を生かした配置の絶妙さは凄い)、常識にとらわれない仕上げ材に対するセンスの良さ(ベニヤとコンクリート仕上げがほとんど)、妹島氏が建築家として積み重ねた独創的な言語が実に伸びやかに展開されている。暑いさかりに訪ねたが、冷房は管理室の小さな棟しかつかっておらず、ホールのガラス扉はすべて開け放たれており、風が抜けることでどうにか過ごせる程度という環境だったが、かえってホールの温度環境自体も外と一体化してしまったような(外は日差しが厳しいが風が気持ちよく、中は日差しは防げるがややムッとする程度の差異)不思議な身体感覚を感じた。建物の路地を何度も何度も中学生が自転車でグルグル回り続けたり通り抜けたり、していてどうやらここは格好の遊び場みたいだ。
本作品を選出する設計競技の最終審査の公開会場において、妹島氏の提案は抜きん出て「まとも」だと感じられた。
本プロジェクトの設計者を選定する設計競技では「(仮称)鬼石町屋内広場」という表題が掲げられ、広く案を募集された。設計与件では、公民館的な施設が要求されつつ、一方で地元林業の振興のために木造構造の斬新な提案を併せて求めていた(審査員には構造家の佐々木睦朗氏も名を連ねていたことがさらに参加者の方向性に拍車をかけたと推測される)。最終選考に残った5者は、手塚貴晴、西沢大良、三分一博志、妹島和世、安田光男だったが、妹島氏を除く4者は、いずれも木構造の斬新な提案を掲げた。木構造は単純に考えれば、鉄やコンクリートに比して、弱く、柔らかく、燃えやすい。西沢、三分一、安田の3氏は、繊細な部材断面で構成された、例えば葉脈のような繊細な構造を提案し、手塚は逆に火災時に燃え残るくらい太く頑強な木組の構造を提案した。また手塚、安田、三分一の3氏は1棟でフレキシビリティの高い構成を、西沢氏は建物を分棟としキャラクターのある広場とともに小さな単位を連続させる集落のような構成を提案した。
一方妹島氏は、まったく違うアプローチから作品を語ったのであった。氏は、「屋内広場」という語の不思議な響きに魅力を感じ、屋内であるが屋外であるような気持ちの良い空間をつくりたいと考えたが、小さな住宅が並ぶ周辺の風景を壊したくない・圧迫感を与えたくないと感じたので、建物を半分地下に埋めて、また建物を分棟とすることと外形を有機的な曲面とすることで、低層で周辺の広場から連続する路地のような空間の質も持っているが、建物をのぞき込むと屋内に大空間が広がっていて、建物の中も外も人が自由に集まれるような施設を提案した。それでは新しい木構造は、と言えば、できるだけ気持ちのよい抜けのある空間としたいので、鉄材とハイブリッドすることで大スパンの構造を実現するというような内容で、案の良さは別としても、明らかに案をつくるベクトル自体がひとりで異質だった。
設計競技で案を選出する場合には、選ぶ側参加する側ともになんとか斬新な案を選ぼう・つくろうとするあまり、「その土地に建つ建物としてふさわしいか」という当たり前のことが見落とされる傾向がある(富弘美術館はその最たる例だろう)。妹島氏の提案は、建築の提案としても実はかなり斬新なのだけれど、もっとも素晴らしいのはその斬新なアイデアの根っこには、氏がユーザーサイド、建築を使う側の視点から「こうあって欲しい」「こうあったら良いな」というようなことがある点である。ユーザーサイドに立ってはいるがどうも空間のアイデアは凡庸な建築家・設計事務所は星の数ほどいるし、作品をつくろうとするあまり、建築の目的やユーザーの気持ちから乖離してしまっている建築家も沢山いるなかで、氏のようなスタンスは極めて異質だ。ところで、氏の事務所は、莫大な量の模型を造ることで知られるが、漏れ聞く噂話からぼんやり考えてみると、その模型を前にした議論のほとんどは、「どういう意図でつくられたか」ということと「結局どう見えるか(見られるか)」という制作と体験のふたつの立ち位置の統合に割かれていると推測される。つまり、最終審査での氏の異質さは、「どういうものをつくりたいのか」、ということと、「最終的に人にどのように〈実感〉されるのか」ということに繊細な氏らしい視点に起因しているのだが、建築家は最終的には審査員ではなく、文化人でもなく、一般人に対して説明責任があるのだから、妹島氏の説明の方向性が、どう考えても「極めてまとも」なのだ。しかしところで、氏の「まとも」な感覚がつくり出す建築たちは、地政学的な構造を実はゆるがしてしまっているように感じられるのだけれど、これは氏の「まとも」さが、社会のゆがみを超越しているからだと僕は考えている。氏は「建築に何が可能か」ということをヒラヒラ拡大し続けているのだ(金沢や鬼石町に住みたいと本気で思う人がこれから続出することでしょう)。
実際に訪れてみると、鬼石町は、というかどこからどこまでが鬼石町か実はわかっていないから敷地周辺の半径数百メートルくらいは、ほとんど高層の建物を持たない2階建てがほとんどでせいぜい3階建てがある程度の街並みで、しかも街区が整然としていたり幹線道路があったりしないので、低層に計画された「鬼石町多目的ホール」は、車で近づいてもどこにあるか全然わからず、我々の車のナビゲーションシステムは別の空き地を目的地として指定してしまった。
困り果て、たまたま通りかかった老婦人に道を尋ねると、すぐそこの角を曲がって、路地を入っていけば見つかるはずだと教えてくれた。
「なにしろ、総ガラス貼りだから、すぐにわかるわよ」と微笑むその表情はどこか誇らしげだった。