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August 24, 2005

「丹下健三 DNA」(「Casa BRUTUS」9月号)
梅本洋一

[ architecture ]

casa09.jpg 建築学科に入学した学生は、まず「Casa BRUTUS」で建築の基礎を学び始める。友人の建築家はそう苦笑いしていた。「新建築」でも、今はなき「建築文化」でもなく、「Casa BRUTUS」!
 今月号の「丹下健三 DNA」を見ると、確かに丹下健三の基礎が学べる。たとえば藤森照信による丹下健三の解説と彼のセレクションによる丹下健三ベスト100が写真付きで解説されているし、彼の生年(1913年)から今年までの彼の主要な作品、他の建築家による主要な作品、世界史上の出来事が簡潔な年表でまとめられている。弟子筋の谷口吉生、槇文彦のインタヴューもある。そして息子で現・丹下事務所社長の丹下憲孝によるイタリア・ガイド──いかにも「カーサ」という企画──があって、おまけも付いている。よくできた特集だ。つっこみは浅いけど……。でも雑誌にはその浅さが付き物だ。だけれども、とりあえず丹下について知っていた──自慢ではない、単に長生きしているだけ──ぼくにとって、この特集で教えられたことはほとんどなかったし、フェラガモと丹下事務所のタイアップ企画はぜんぜん面白くなかった。東京オリンピックのときに東京に住んでいて、代々木のプールで水泳を覚え、美濃部都政時代の都庁に行った経験のある者にとって、丹下健三の建築はもう常数なのだ。
 だけれども、藤森選択による丹下ベスト100を年代順に見ていくと、丹下が東京や広島で活躍していた時代──一応、戦後と呼んでおこう──と、大阪万博のお祭り広場の大きな屋根と太陽の塔の1970年以降の大きな差異に本当に驚いてしまった。もちろんその差異について知らなかったわけではない。高度経済成長の時代の頂点が大阪万博で、ぼくらはその直前に1968年を経験して、ぼくの通っていた高校のクラスで万博なんかに行く奴は単に恥知らずだった。50年代、60年代の丹下の建物は傑作揃いだ。でも最近の──つまり新東京都庁を含めて、パークハイアットも含めて──丹下の仕事は、単に背の高いビルをクライアントの希望通りに建てているだけだ。彼の晩年の作品である東京ドームホテルで、ぼくらは『demonlover』のロケをしたけれど、何の変哲もない高層ホテルだった。知らなければ、それが丹下の作品だなどと誰も気づかないだろう。竹中工務店だって、鹿島だって同じことができるだろう。『demonlover』というフィルムにとっては、この何の変哲もなさこそ必要だった。ホテルオークラや帝国ホテルじゃいけないのだ。事実オリヴィエ・アサイヤスはパークハイアットでもいいと言っていた。しかし代々木のオリンピックプールを何の変哲もないプールとは言えない。「どうだ!」とばかりに丹下だ。同じことは、かつての草月ホールと今の草月ホールにも言える。かつての草月ホールは、そこから発信された多くの作品によって名高いし、草月ホールで行われるイヴェントにはそれなりに神話作用があったが、今の草月ホールは単に貸しホールだ。高度成長期の丹下には、都市をつくる──場をつくる──強烈な意志があった。だが、70年代以降、東京で彼の意志の一部を実現することなど不可能になったのだ。だから彼は世界各地に赴くようになる。
 つまり東京は決定的に変わった。東京にはもうモニュメントなどいらなくなった。東京に住む人も東京に来る人にもそれが必要だったのはオリンピックまでのことだろう。だから新都庁のコンペに丹下案が採用されて物議を醸した理由は、当時の鈴木俊一知事と丹下の癒着が問題なのではなく、あまりに豪華な施設は要らないということでもなく、時代を経てみれば、あんな形の都庁など誰も欲しくなかったからだろう。ときどき新宿の西口に降り立つと、70年代のにぎわいがすっかりなくなり、悲しいほどの寂しさだ。もう何か大きな空き地をつくって、そこを「再開発」することなど必要ない。しかし、汐留、品川、みなとみらい……誰も必要ないと思っていないみたいだ。