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August 27, 2005

「死の谷'95」青山真治(「群像」7月号)
梅本洋一

[ book ]

sinotani95.jpg 確かに10年前、思いもよらぬことが続発した。阪神大震災、地下鉄サリン事件。ぼくらは、それから10年、ぼくらは、それらのことなどなかったかのように生きている。阪神大震災では知人と呼べる人が何人か犠牲になり、地下鉄サリン事件の朝、犠牲者が出た中野坂上駅前を運転していて、ぼくは救急車を何台も見た。それから何時間も何日もテレビにかじりついてことの顛末を(見えもしないのに)見つめていた。
 青山真治は、「なにもない空間」をこれでもかというくらいに描き続ける。無理矢理開発された林の中の4車線の自動車道。その脇に建っているあばら屋にしか見えない(けれども、周囲にはそこしかないので、それなりに人が集まる)スナック。もう誰もやっている人などいないと思うが入ってみるとそれなりにゲームを楽しむ人がいる、メッキの剥げたピンが屋上に載っているボーリング場……。地方都市なら、それなりの歴史と見るべきものが残っているのだろうが、東京湾を挟んでメガロポリスと向かい合うK市には、本当に「なにもない」。この「なにもなさ」はK市に行かなくても多くの人が体験したことがあるだろう。たとえば成田空港から東京へと向かう道路。外国へと続く道なのに、嫌になるくらい「なにもない」道が延々と続いている。都心に通勤する人々が住む集合住宅が建ち並ぶ丘陵地でもなく、地方都市でもない、奇妙な中間地帯。「死の谷'95」の舞台はそんな中間地帯だ。だが、正確に書くと、「ここ」には「なにもない」わけではなく、その「なにもなさ」ゆえに、「ここ」とは別の場所で起こっている多くが「ここ」に与える微妙な関係が際立って見える場所でもある。青山のフィルムに親しんできた者なら、そうした場所こそ、青山のフィルムの特権的な場所であることが分かるだろう。トンネルを抜けた場所、ビルの屋上の駐車場──他の場所と隔絶されたように見えながらも、「そこ」と「ここ」を結ぶ直線的な通路を介して、「そこ」が逆照射される場所としての「ここ」。「そこ」には一見総てがあるのだが、「ここ」から見ると、「ここ」の「なにもなさ」と「そこ」の総ては通底していて、完全に同じ力学の中にある「そこ」と「ここ」。
「そこ」にも「ここ」にも女がいて、「そこ」にいた女と「ここ」にいる女は同一人物なのだが、10年の時の流れがある。その10年間で、この小説の登場人物たちは確実に歳をとる。そして、彼らもぼくらも、この10年間に、「そこ」で起こったことに大きな影響を受けて生きている。主人公はプー太郎から探偵になり、結婚して離婚する。以前は、ひたすら寝ているばかりだった毎日、今では寝る時間もほとんどないし、10年前のある出来事がゆえに、安心して眠ることさえできなくなる。この10年間を思い浮かべてみると、どの登場人物の一部にも、「ぼく」が存在してしまうことを感じる。思い出したくもないことを、この小説を読んでいるとたくさん思い出す。だが、とりあえずぼくらは「そこ」の10年前を断ち切って(断ち切ったふりをして)「ここ」の今に生きるしかない。主人公は、「そこ」から「ここ」──今となっては「ここ」がK市でなくてもどこでもいい──へ赴くためにルノー4を転がさなくてはならない。固いコラムシフトを握り、なかなか入らないバックギアに往生しながら、小さい排気量のエンジンを必死で回し続けなければならない。久しぶりにぼくもルノー4のハンドルを握りたくなった。『めまい』や『夜霧の恋人たち』のことも書きたかったが、それよりもルノー4で、ぼくも〈丘を超えて、遠くへ〉向かいたくなった。