トータス Live (@Metamorphose 2005 8/28 修善寺サイクルスポーツセンター) 田中竜輔
[ cinema , music ]
ヴィヴラフォンとマリンバ、ロックバンドのステージでは滅多にお目にかからない二つの楽器が、静かに、そして力強くメロディを紡ぎ始める。そう、『Crest』だ。何度もCDで聴いていたはずのこの曲が午前零時を少し回った修善寺の山奥に共鳴を始めた瞬間、今までに経験したことがない空気の震えを感じた。この場所にいられることを心から幸せに感じた。この音楽が無限のヴォリュームになって全世界に響き渡ればいい、そんなありえないような状況まで想像してしまった。本当に素晴らしいライヴだった。
トータスというバンドにとって、ライヴ演奏とレコーディングされた音源との間に優劣をつけたり、どちらが本当の姿であるのかという問いを立てることはあまり適切ではないのだと思う。彼らが「バンド」という共同体において活動している以上、レコーディングされた記録としての音楽だけが本当の姿ではないのは当然だとしても、作曲というプロセスとレコーディングというプロセスが殆ど同期している彼らにとっては、音源における彼らの姿もまた真の姿のはずだ。その二つは表裏一体であり、「記録としての音楽」と「体験としての音楽」という複製技術以後の音楽が背負うべき命題の狭間において、トータスはトータスでありえるのだといえるのかもしれない。その二つの命題が表裏一体であることとは、二項対立であるということではない。「トータスA」と「トータスB」がいるということなのではない。そのどちらもトータスであるのであり、そのどちらかだけではトータスではありえないということだ。
もし、私がこのときトータスというバンドを全く知らなかったとしてこのライヴを見たとするのならば、もしかしたらここまで感動を覚えることがなかったのかもしれないとも思う。もちろん、この卓越した演奏能力と楽曲の質を考えれば、そうでなくとも充分に満足したことは目に見えている。だが、その時私は「記録としての音楽」を生きるトータスについて何の思考も、感慨も抱かなかったに違いない。彼らは信じられないほどに濃密な時間をレコーディングという「記録」のために費やしているのであろうし、それは絶対にライヴという一瞬の「体験」にも対等な時間であるはずなのだ。トータスの圧倒的なステージに魅せられた私は、そんな当たり前のことを彼らに改めて学んだような気がする。少し大袈裟なのかもしれないが、それは「聞く」という行為における倫理の問題なのかもしれない。
朝方に会場を後にして、車中で熟睡し、家に疲労困憊のままたどり着いた私は、殆ど無意識にヴォリュームを出来る限り上げて『It`s all around you』を聴き返していた。幾層にも重なり合ったヴォーカルと上り詰める直前でリフレインを繰返すコード進行が少しづつ時を刻む『The Lithium Stiffs』に続いて、あの『Crest』のメロディが自宅の小さなスピーカーから鳴り響いた一瞬、今までには感じることの出来なかったはずの「あの瞬間」の空気の震えを再び感じて、思わず胸が熱くなるのを覚えた。