『ランド・オブ・ザ・デッド』ジョージ・A・ロメロ月永理絵
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ジョージ・A・ロメロの20年ぶりの監督作である。本当はゾンビシリーズとしてひとつの年代に一本の映画を撮ろうと思っていたと語るロメロは、68年の『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』でデビューし、78年に『ドーン・オブ・ザ・デッド/ゾンビ』を、85年の『デイ・オブ・ザ・デッド/死霊のえじき』を完成させた。当然のようにゾンビ達の能力や姿は、その時代を象徴するものであり、05年に現われた彼らの新しい能力は「知能」であり「侵略」である。人間達は、デニス・ホッパー演じるカウフマンという男が河とフェンスに囲まれた街に巨大なビル「フィドラーズ・グリーン」を建て、まるで「国家」のような街をつくりあげている。この街は、彼に雇われた傭兵の反乱と、ゾンビたちの街への侵入というふたつの危機に見舞われる。内からの反乱と外からの侵略、それはまさに9.11以降のアメリカの姿だ。
『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』では、ヘリコプターは事態の終息を表すかのようにラスト近くに姿を見せていたし、他二作では人間達が逃げる唯一の手段として使われていた。しかし、『ランド・オブ・ザ・デッド』では、空を使って逃げるという手段そのものがまったく無視されている。傭兵のリーダーで街を救おうとするサイモン・ベイカーは、完全装備された巨大なトラックを操っているし、ゾンビが階段を昇りエレベーターを使うことはない。ゾンビたちも、デニス・ホッパーの命を狙う反乱者も、「フィドラーズ・グリーン」から地上へと降りてくるデニス・ホッパーをしぶとく待ち続けるだけなのだ。つまり戦いも混乱もドラマもすべて道路の上、地平のレヴェル、水平な視線の中でしか起こらないのだ。空撮によって映された街には、ゾンビたちの黒い影が虫のように蠢き、散らばっていく。この薄っぺらで平面的な映像が、この街と映画全体をつくりあげている。
この映画は、唯一街を見下ろすことのできる男、デニス・ホッパーをどうやって地上へ引きずり下ろすかという話でしかない。街のまん中にそびえ立つ巨大なビルが象徴するもの、それが9.11以降のアメリカの姿であったとしても、このビルが砲撃で崩壊することはない。真っ黒な闇としてゆっくりと増殖していくゾンビ達は、テロリストとしてではなく、アメリカがすでに内包していた存在として描かれる。元傭兵であり反乱者の男が最後にはゾンビとなってデニス・ホッパーを襲うように、外部からの侵略者は内から沸き上がるものなのかもしれない。そして、サイモン・ベイカーやアーシア・アルジェントらは明らかに「遅れてきた者」であり、物語の中心から遠ざけられる。恐らくこの映画自体が、9.11以降のアメリカを描くということから、物語を進めるうちに少しずつ遠ざけられたのではないだろうか。
ともかくも、最後に陸橋を渡り上へ上へと歩くていくゾンビたちと、北を目指して地上を走る人間たちと、果たしてどちらが新しいアメリカを見つけるのか。その答えをもう少し待っていたいと思った。