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September 9, 2005

「建築家 清家清 展 《私の家》から50年」
梅本洋一

[ architecture , music ]

 丹下健三についての思考がやや結論めいたものに導かれつつあるとき、見たくなるのは清家清だ。モニュメントではなく、普通の風景の小さな革新。ちょうど折良く汐留ミュージアムで「清家清展」が開催中だ。ぼくが初めて清家清という固有名を知ったのは、ネスカフェ・ゴールドブレンドのCMだった。「建築家 清家清──ちがいが分かる男のゴールドブレンド」というのがコピーだった。「ちがいが分かる」シリーズの最初の方だった(あるいは一番最初?)と思う。戦後のもののない時代に「私の家」や「森博士の家」や「斉藤助教授の家」でさっそうと建築界に現れた人。ぼくの清家清のイメージは以上だ(実際は、酒もタバコもコーヒーも飲まなかったそうだ。だから「ちがいが分かる」のだろうか?)。
 この展覧会の売り物は、「私の家」の実物大模型だ。もちろん雪が谷に「私の家」はまだあるのだから、そこへ行けばいいのかもしれないが……。わずか50平方メートルのワンルーム。それが「私の家」だ。当時でも小住宅と言われていたし、実際、大きな邸宅と比べれば小住宅にはちがいないが、「私の家」が竣工する3年前に誕生した公団住宅の51Cは35平方メートル程度だったと思う。だから小住宅ではあっても、同時代としては十分な広さがあったはずだ。もちろん、この「私の家」の重要さは広さとは関係ない。庭に面した大きな開口部のあるワンルームであること──それが何よりも重要なのだ。
 実際はどうなのか? 実物大の模型を何度も歩き回り、有名な移動式の畳にも座ってみた。移動式の畳はともあれ、ワンルームは素敵だった。実際は多目的室と寝室と書斎がカーテンで区切られ、開口部左側は、台所とトイレという水回りが集中している。トイレにビデがあるのには驚いた。10m×5mという均質の空間が放り出されているようでいて、実に手の込んだ仕掛けが細部にある。中央に鉄製のブリッジが渡り、それに巻き付くように2本のスポットライトが照明を保証しているところ。狭いけれども機能的な台所。当初は素っ気ないような装置や仕掛けだったかもしれないが、使い込まれ時代が変わり、家族という形態が変貌を重ねると、逆にその細部の工夫が極めて有効だったことがわかる。変貌を保証する空間、そして変貌を保証しながらも代わらぬ何かとして常に有効な細部。「この家は竣工届けを出して4年も経っているが、本当にできあがってはいない。永久に完成しないだろう」。清家清はそう書いている。
 この展覧会には、「私の家」の実寸模型の他にも、清家が25歳のときにもらったアテネフランセの修了証書や彼がヨーロッパを縦断したときに乗っていたスクーターや、芥川比呂志演出の舞台の装置模型、卒業制作のデッサンも展示されている。なんと彼の卒業制作は映画館だった。デッサンから判断するとモダニスムの権化のような映画館だが、もし完成していれば、きっと今日でも存在している映画館だったはずだ。

松下電工汐留ミュージアムにて開催中