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September 26, 2005

『シンデレラマン』ロン・ハワード
梅本洋一

[ cinema , sports ]

 金のために久しぶりにリングに復帰するブラドック。マジソン・スクウェア・ガーデンのロッカールーム。トレーナーに空腹だと告げ、彼の前にはボールに入ったハッシュット・ビーフが運ばれている。フォークを取りに、ロッカールームを出るトレーナー。そこにひとりの男が訪れる。ソフト帽を斜めに被り、顔に深い皺が刻まれた「NYトリビューン紙」のヴェテラン・ボクシング記者だ。「俺のことを覚えているか?」「ああ、ひどく書いてくれたのを覚えている」。ブラドックは、記事の言葉を逐一暗記していて、それを記者に告げる。殺風景なロッカールーム。黄色みがかった照明。あまりの空腹に手でビーフを頬張るブラドック。
 こうしたシーンを見ると、久しぶりにアメリカ映画を見たことを感じる。物語のために決定的な瞬間を十全に演出し、そして、その間に、こうした取るに足らぬ、いや、取るに足らないがゆえに、非常に存在感あふれるシーン。確かに50年代までのアメリカ映画なら、こうしたシーンに事欠いたことはなかった。このフィルムでもブラドックのキャリアを見つめるこのジャーナリストの姿は、マジソン・スクウェア・ガーデンでときどきクロースアップされる。「目の前で起こっていることが信じられない」と復帰後連勝するブラドックを見て、この記者は語っていた。顔の皺と声がボクシング映画には欠くことのできない大きな要素だったことを思い出す。『鉄腕ジム』、『Body and Soul』……。
 だが、ロン・ハワードはラオール・ウォルシュとロバート・ロッセンの間で逡巡している。正確に言えば、逡巡しているのではない。彼は逡巡せず、そのまま立ち止まっている。確かに上記のシーンひとつとっても、ロン・ハワードは確かな演出力を備えているのだが、現在のアメリカ映画が要請する、あるいは強制する方向性が、ロン・ハワードの行く手を遮っているのかもしれない。もちろんラッセル・クロウは、エロール・フリンでもなければ、ましてやジョン・ガーフィールドでもない。単なる善人の顔しかしていない。この俳優にすべてを背負わせるのは無理なのだろう。それは分かる。だが、連戦連勝するブラドックの辺りから、ウェルメイドにこりごりするのも事実だ。実話だから仕方がない? ならば復帰戦の勝利でピリオドを打ってもいいだろう。ボクサーと妻との恋愛話にすべてを回帰させるよりも、デプレッションの時代のみに拘り続けた方がフィルムとしてずっと面白いはずだ。