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October 17, 2005

『マルグリット、あるがままの彼女』ドミニク・オーブレイ
須藤健太郎

[ book , cinema ]

 ドミニク・オーブレイは、マルグリット・デュラスの友人であり、『バクステル、ヴェラ・バクステル』『トラック』『船舶ナイト号』などデュラスの映画の編集者として彼女を支えていた。このフィルムは、そんな彼女によるデュラスのドキュメンタリーである。彼女の幼年時代の写真から撮影された当時のインタヴュー映像まで、作家、映画監督としてだけではないデュラスという人の様々な表情が捉えられている。親しくしていた哲学者や知人に彼女のことを聞いたり、また息子によるデュラスのインタヴューなど、このフィルムには、数々の会話、つまり言葉が溢れていた。そして、ジャンヌ・バリバールによるデュラスのテキストの朗読。しかし、『マルグリッド、あるがままの彼女』はまた、そのような人が屋内で話す言葉を捉えた映画というだけでなく、無人の浜辺に打ち寄せる波や海岸から飛び立っていくカモメの群れなどの映像によっても構成されている。話し声の饒舌さと時間が止まったかのような沈黙が交互に組み合わされ、繋ぎ合わされている。声に満ちたにぎやかな屋内と沈黙が支配する静謐な屋外。そう、つまり『マルグリッド、あるがままの彼女』はまるでデュラスのフィルムのような美しさを持ったフィルムなのである(上映後に行われたティーチインで、ドミニク・オーブレイは、デュラスのフィルムの魅力はテキストと映像が組み合わされている点だと言っていた。また、言葉と言葉、映像と言葉の間にある沈黙こそがその魅力なのだ、とも)。
 デュラスだけでなく、ヴィム・ヴェンダースやクレール・ドゥニ、ブノワ・ジャコ、そしてペドロ・コスタなど彼女が組んできたのは錚々たる面々であるが、彼女のティーチインやその後に上映された『自由、夜』の後に行われた諏訪敦彦(彼女は彼の新作『Un Couple parfait』の編集を担当した)との対談を聞いているうちに、彼女個人への関心がどんどん大きくなるのを感じていた。編集室という暗く閉ざされた空間での長時間の作業は、おそらくそれほど楽なものではないはずだし、地道な作業に孤独感や空しさを感じることもあるかもしれない。しかし、彼女のきりっとした佇まいや自信を持ったしゃべり方やその声を聞いていると、彼女は作品の誕生の瞬間に立ち会うことを心から楽しんでいるように思えた。諏訪敦彦との対談で、彼女は「自分が関わったどの作品が一番好きかということは言えない。みんな自分の子供みたいだから」と言っていたのが何より印象的だった。彼女なしには多くの作品は生まれなかった。膨大なラッシュ映像をひとつの作品に結実させるために費やされる思考と手作業はそれこそ計り知れないものだろう。映画は編集室で生まれるという言葉も心に残った。
『マルグリッド、あるがままの彼女』の中にもデュラスの印象的な言葉があった。「私は何もしないことに耐えられない。だから、映画を撮っている」。対談において、諏訪敦彦は『自由、夜』にフィリップ・ガレルの変化を指摘していた。確かに、79年の『秘密の子供』以降、ガレルはそれまでのアンダーグラウンドな映画ではなく、私的な事柄を反映させてはいても、商業的なベースでも通用する作品を作るようになったのだった。かつてガレルはその変化を問われ、「生きるためだ」と答えていた。続けて『自由、夜』を見たせいだろうか、デュラスの言葉とガレルの言葉とが呼応して聞こえた。

「ドミニク・オーブレイ特集」
東京日仏学院にて上映中