« previous | メイン | next »

October 17, 2005

『自由、夜』フィリップ・ガレル
藤井陽子

[ architecture , cinema ]

“montage”、確かに今までも、多くの映画のクレジットの中で目にしてきたはずなのに、監督や出演者やカメラあるいはプロデューサーが誰か知りたいと思うような熱心さでその名前を追うことはこれまであまりなかったように思う。しかし、まさに「編集」という仕事を通して映画と共にいたドミニク・オーブレイが共同作業をしてきた映画人の面々をみてみると、クレール・ドゥニ、マルグリット・デュラス、フィリップ・ガレル、ペドロ・コスタ、ヴィム・ヴェンダース、ブノワ・ジャコ、バーベット・シュローダーと、目も眩みそうなそうそうたるメンバーが名を連ねていて、否が応でも興奮してしまう。あたかもそこにひとつ映画の地図が描かれているようで、非常に興味深い。
 ドミニク・オーブレイが監督した映画『マルグリット、あるがままの彼女』上映後のティーチインにて、彼女はマルグリット・デュラスとの共同作業の様子を語ってくれた。デュラスが捉えた数々の映像や音は、例えれば大きなふくろの中に混在していて、そこから、これだと思うものを取り出す、ちょうど映画のスクリーンにパズルをあてはめるように、何をどれだけ見せるのか、的確にショットを選び出す。その作業の中で、ショットが映画に合わないようなときは映画がショットを退けるのだ、そう言っていた。諏訪敦彦の『Un Couple parfait』にも編集で参加した彼女が、諏訪敦彦と「映画が息づかいをはじめる瞬間、それが編集の段階にある」と語り合い、「それを共有することが重要」と言ったこと、あるいは「どんなに長い映画でもその息遣いさえぴったりしていれば、いつまでも見続けることができる」と言ったことは、彼女がこれまで、まさに映画の生まれる瞬間に立ち会い、その竜巻の渦中に身を投じ、映画のそれぞれ独自の呼吸を感じ、それにぴったりと呼応しながら作業を進めていったことを物語っている。
 アルノー・デプレシャンが雑誌「アンロキュプティーブル」で提唱したカトリーヌ・ドヌーヴ=映画監督説、それに呼応して行われた「カトリーヌ・ドヌーヴ特集」、そして今回の「ドミニク・オーブレイ特集」は、素晴らしい映画に遭遇する機会を与えてくれるというだけではなく、映画史を新たな視点から見つめるきっかけをもたらす重要で興味深いプログラムであり、「映画を見せる」ことで「映画史を演出する」そのひとつのかたちを提示していると言えるだろう。

『自由、夜』はフィリップ・ガレルが初めて他者と組んで編集を行った映画だ。きっかけは、それまでにない予算とプロデューサーがついていることによる必然だったようだが、ガレルは自らオーブレイを指名し、夜はガレルが、日中はオーブレイが編集にあたり、互いの編集に意見を交えながら作業を進めていったという。ガレルはこの映画で自らに「物語を語ること」を課した。50年代末のパリで、アルジェリア解放戦線に身を投じたジャン(モーリス・ガレル)、妻のムーシュ(エマニュエル・リヴァ)、アルジェリア生まれのジェミナ(クリスチーヌ・ボワッソン)の愛の物語が語られるのである。しかしその物語のたがを突き破るような圧倒的な強さをもった彼らの存在、「悲しまないで」とつぶやいて静かに涙を流すエマニュエル・リヴァ、モーリス・ガレルと抱き合ったクリスチーヌ・ボワッソンの顔、突然姿が見えなくなった彼を捜す彼女の、痛々しく激しい感情の固まりのようなその動作のひとつひとつを忘れることはとてもできないだろう。今にもばらばらに弾け飛びそうな強度を持った瞬間を、『自由、夜』という1本の映画に繋ぎとめることの至難をガレルとオーブレイはやってみせた。強度を持ったままの瞬間を紡ぐ、それはまさに彼女が言っていたように、人物の呼吸とショットの呼吸が、映画の呼吸とガレルとオーブレイの呼吸が、ぴったり重なり合ったからこそなせたことなのではないか。
「ミシンの音」と女の頬笑み、それをじっと見つめる男、そのショットから始まる『自由、夜』は、映画と呼吸することを知る者たちの、映画への愛の物語でもある。このような特集の中で『自由、夜』を見たことは、誰かのためでも自分のためでもなく、映画のために、声を発したいと思わせる強度を持った体験だった。

「ドミニク・オーブレイ特集」
東京日仏学院にて上映中