「前川國男 建築展」梅本洋一
[ architecture , sports ]
清家清、吉村順三と回顧展を見続けた私たち、吉阪隆正についての書物を興味深く読んだ私たちが最後に遭遇するのは、東京ステーションギャラリーで開催されている「前川國男展」だ。清家清がイノヴェーター、吉村順三がアーティスト、吉阪隆正がエクスペリメンタリストだとすれば、前川國男をなんと形容すればいいのだろうか? 彼についての書物にように「賊軍の将」なのだろうか? この展覧会で見るめくるめく作品群を考えれば、彼は「賊軍の将」などではなく、これだけ多くの公共建築を設計しているのだから、まちがいなく「勝ち組」だ。そして、ぼくが幼少時に住んでいた横浜にある神奈川県立音楽堂・図書館や、今住んでいる世田谷区役所・区民会館、そして非常勤で教えている学習院大学の図書館と俗称・ピラ校(講堂)を思い出しただけでも、彼は晴れ晴れと勝ち誇っているのだ。
その勝利ぶりは、この展覧会における気の利いた展示である丸の内の東京海上ビルでも同じことだ。東京ステーションギャラリーの丸の内側の窓近くに前川設計の東京海上ビルの模型があり、窓から実際の東京海上ビルが望める。31メートルのスカイラインに統一された丸の内のオフィスビル街に初めて高層ビルを建てたのはほかならぬ前川國男であり──それはバブル以前のことだったが──、それが突破口になって、丸ビルの高層化、オアゾの建築に繋がったはずだ。「賊軍の将」である前川の戦略と戦いの勝利の方程式を、三菱地所を中心とするディヴェロッパーが逆手にとって、丸の内の再市場化につなげたのだ。丸の内仲通のストリート化という副産物はあるにせよ、丸ビルは単にショッピングモールにすぎない。
清家清、吉村順三、吉阪隆正の仕事が住宅を中心とした「個人」に傾斜しているのに対して、前川が住宅を手がけたのは、あの素晴らしい自邸を除いて例外に属する。彼は「箱もの」を手がけた建築家だったのだ。だからこそ、そこに公共性という時代と共に流転する概念との関わりを避けて通ることができないがゆえに、そこに施主──公共──との間に常に軋轢が生じたはずだ。自らを賊軍の将と呼ぶ前川の感慨は、彼の手がけた仕事の方向性から来るのではないか。だが、大きくパブリックスペースをとり、そこから吹き抜けを通底する階段で、それぞれの機能を包含する空間へと導かれる前川の公共建築の落ち着きは、彼が類い希な建築家であるという証拠だろう。ぼくらは、前川的な空間が、ぼくらの公共性を支えていることにもっと自覚的であるべきだろう。