『ボーイ・ミーツ・ガール』レオス・カラックス須藤健太郎
[ cinema ]
巷ではJ・T・リロイが実在しなかったというニュースが賑わっているが、確かにこれには驚いた。ウィノナ・ライダーやアーシア・アルジェントはその事実は知っていながら、その隠蔽に協力したとして非難の的となっているようだ。
アーシア・アルジェントがリロイの小説を基に作った『サラ、いつわりの祈り』を見たとき、カラックスのことを思い出した。それがカラックスを想起させたのではなく、それが単にジャン=イヴ・エスコフィエに捧げられていたからだ。このことについては、以前このサイトに書いた。
そんな中、久しぶりにアテネで『ボーイ・ミーツ・ガール』を見た。用事で近くまで行ったので、ふと見直してみようと思ったのだ。初めて見たときに理由もなく無性にのめり込んだ映画。それから何度もビデオなどで見たりしていた。それくらい好きな映画だった。しかし、それを今回改めて見直してみると、この映画がこんなにも悲しく切ない物語を語っていたことをすっかり忘れていたことに気付かされた。
20年代のサイレント映画、マン・レイなどのフランス・アヴァンギャルド映画、ドライヤー、そしてゴダール……それこそこの映画はもちろん数々の引用の織物である。かつて私は自分が好きになった映画なのだから、その引用に気付かなければいけないと強く思い込んでいた。そこに何が、どういう形で、引用されているのか。そのためには膨大な数の映画を見なければならず、またそのような意識のもとで映画を見ることも必要だった。この映画をよりよく理解するために、そういった読解は避けられないと思い、馬鹿みたいに一生懸命になって私は何度も見直したのであった。そして、そうするうちに、初めて見たときの感動を忘れてしまったとまでは言わないまでも、いろんなことを忘れてしまったのかもしれなかった。
モノクロの美しい映像や呟くようなモノローグ。この映画は冒頭からいくつもの「別れ」をたたみかけるように提出している。ドニ・ラヴァンは親友に恋人をとられ、ミレーユ・ペリエもまた頼りにしていた恋人が自分のもとを去ろうとしていることに耐えることができない。深い悲しみがこの映画を覆っている。ふたりが出会い、語り合ったとしても、それが虚しいモノローグに聞こえてしまうぐらい、ふたりには悲しみが重くのし掛かっている。この映画ではオーヴァーラップが印象的に使われているように、ふたりの出会いとは、ふたりの悲しみがオーヴァーラップすることであって、その出会いはまたひとつの「別れ」を準備するものでしかなかった。そして、だからこそ、儚い希望が夜空に瞬く星のように輝いて見える。
ところで、カラックスはいま何をしているのだろう。新作を準備中という話は聞くが、いつごろ完成するのだろうか。