『第九交響楽』デトレフ・ジールク(ダグラス・サーク)月永理絵
[ cinema ]
99年に出版された、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの著作集『映画は頭を解放する』は、ダグラス・サークについての記述から始まる。サークからの影響を強く受ける彼は、『天はすべて許し給う』や『悲しみは空の彼方に』など、自分が見ることができたアメリカ時代の作品を並べ、ときに「胸くそが悪くなる」というような明け透けな言い方をしながら、物語の中で生きる人々の性質について語っている。たとえば、『風と共に散る』では、ローレン・バコールが身ごもった子どもは、血のつながりに関係なくやはりロック・ハドソンの子供であり、ロバート・スタックはローレン・バコールをどうしても愛せないから苦しむのだというようなことを。
『第九交響楽』はサークにとって初の本格的なメロドラマである。ニューヨークのセントラルパークのベンチで死体となって発見された男は、金を横領しドイツから妻とふたりで逃げて来た男だ。ひとりとなった妻ハンナは病に倒れるが、ラジオから流れる第九交響曲を聴き、ドイツへ置いてきた息子に会うために帰ろうと生きることへの希望を見いだす。しかし息子は既にこの第九を指揮していた指揮者の家に養子に出され、ハンナは身分を隠し子守りとして彼と再会する。このハンナという女性には、ナチスに入党した先妻に実の息子と会うことを禁止されたサーク自身の悲しみが投影されているのだろう。だが、子どもに会いたいと悲しむハンナの不幸よりも、どうやっても親になれない、養母であるシャーロットという女の不幸の方が、この映画全体に重くただよっている。
彼女は彼女なりの方法で夫を愛し、彼が連れて来た息子も愛そうとするが、ロバート・スタックのように彼女もまた人を愛することができない人間なのだ。子どもは決して純真ではない。年をとり、美しさに陰りが見え始めても、見栄と虚勢によって自分を保つしかない哀れな女を拒否し、とてもまっとうで正しい大人たちを親として選択するくらい、子供は残酷だ。初めから、父と母はこのふたり(ハンナと指揮者)なのであり、親になれなかった者たち(シャーロットとハンナの元夫)は死へと導かれていく。シャーロットは自分自身の手で死を選んだことが最後の証言で証明されるが、ロバート・スタックが本当の意味では殺されたように、彼女もまた夫と若い愛人に殺されたのだ。『第九交響曲』の次作である『南の誘惑』でもまた、愛を求めながらも父親になれなかった男が悲劇的に殺される。そして、この作品を撮るとすぐにサークは息子がいるドイツを離れ、アメリカへと亡命する。
ファスビンダーは、「胸くその悪くなる」人々ばかりがいる『風と共に散る』のなかで、ドロシー・マローンだけは好きになれる人物だ、と言っているが、『第九交響楽』のシャーロットという女は、ドロシー・マローンと同じくらい哀れで、不幸せで、愛を知らない女だ。だからこそ私は、彼女を誰よりも愛すべき人だと思った。
日本におけるドイツ 2005/2006
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