『恋の掟』ミロス・フォアマン結城秀勇
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3月いっぱいまで東京日仏学院で行われている、アルノー・デプレシャンによるプログラム「人生は小説=物語(ロマン)である」は極めて示唆に富んだ特集である。なかでも、余り注目していなかったミロス・フォアマンのこのフィルムのおもしろさには驚いた。
何度も映画化されているコデルロス・ド・ラクロの『危険な関係』であるが、手紙のやりとりだけで構成されるこの原作を、「秘密」と「共犯関係」のふたつを主軸として映画化したのがこのフィルムではないだろうか。送信者と受信者との間でだけ交わされる情報が持つ秘密。そこで生まれる共犯関係。このフィルムはそれを暴き立てることによるスキャンダラスさよりも、秘密と共犯関係そのものの妙味を捉えているように思える。ほとんどまだ子供といってもいいような若き淑女・セシルの結婚相手はその直前まで秘密にされ、名は伏せられている。彼女のいとこ・メルトイユ夫人は、自分たちのような未亡人の性生活を公然の秘密として「恋人なんていないのよ」と幼いいとこに教え込む。セシルと彼女の音楽教師ダンシニーとの間の手紙は、彼女の秘密の文机の中にしまわれている。それらの秘密は関係者の間でだけあっけなく暴露され、傍目には何事もなかったかのように淡々と事態は進行する。かつては恋人同士であった、主人公ヴァルモントとメルトイユ夫人の間に交わされる視線は愛情と憎悪と計算とが入り交じり、これを見ると単なる友情や恋愛感情なんて薄っぺらいものに思えるほど、彼らの共犯関係は濃厚なものだ。
この映画の中で明かされなかった秘密がふたつだけある。ヴァルモントが叔母・ロズモンド夫人の耳元でささやく言葉と、最後にヴァルモントの葬式でセシルがロズモンド夫人に告げる事実である。このふたつが同一の内容である可能性もあるが、そうであるのかどうかはふたつの秘密を知る唯一の人物である老女だけが知っている。この唯一白日に晒されない秘密は、それだけで強固な共犯関係を作り上げる。粛々と行われる結婚式の中でこっそりと投げられる老婆のウィンクは、ヴァルモントとメルトイユ夫人のそれと並ぶ強固な共犯関係を完成させて、このフィルムは幕を閉じる。
『恋の掟』は、まるで『恋愛日記』のようにヴァルモントというひとりの男が、彼を愛した複数の女たちの中に生き続けるという物語なのだともとれるが、一方でロズモンド夫人というひとりの老婆のまどろみの中で繰り広げられる複数の人生なのだとも言えるだろう。このプログラムですでに上映された『ヤンヤン 夏の思い出』が思い出される。そこでは死の淵にあり眠り続ける老婆を前に、皆が自己の人生を物語ろうとしていた。彼女の葬儀で読み上げられる少年の人生に対する宣言は、『恋の掟』の最後でセシルがウィンクに応えて見せるしたたかな微笑みに呼応している。彼女はもはや少女ではない。
このような「人生は小説=物語(ロマン)である」というプログラムの中での作品間の呼応関係はあまりに豊かすぎてここでは書ききれない。だからもうひとつだけ例を挙げるに留めようと思う。ロズモンド夫人の屋敷に、ヴァルモントの人生にとって最も重要な4人の女性が集う昼下がりのシーン。子供のようにはしゃぐヴァルモントとセシルを前に、トゥールヴェル夫人がヴァルモントとは一体どんな男なのかとメルトイユ夫人に問う。男に惹かれながらもそれに抵抗しようとしている貞淑な若い人妻に向かって、この男を誰よりも知る未亡人はこう答える。「兄弟みたいな人よ」と。『キングス&クイーン』で、イスマエルがどんな男かと聞かれたノラが答えるのと同じように。この「共犯関係」としか言いようのない男女の間柄は、どんな単純な恋愛感情や友情なんかよりも、やっぱり私を魅了してやまないのだ。