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March 20, 2006

『白い足』ジャン・グレミヨン
藤井陽子

[ cinema , cinema ]

 ポール・ベルナール演ずる伯爵の白いゲートルが闇夜に浮かび上がると、子供たちが目ざとく「白い足、白い足!」とからかいながら群がっていく不気味なシークェンスを経て、ブルターニュの港町で起こった5人の男女の復讐劇の幕があがる。
 美しく豊満な肉体を持ち「最高の女」ともてはやされ、常に貴婦人であろうとする元お針子のオデット(シュジー・ドレール)は、酒場の主人で魚卸業を営むジョック(フェルナン・ルドー)の情婦だが、同時に城や貴婦人のドレスをもつ伯爵をいたずらに誘惑もし、かつ他方で伯爵の腹違いの弟モーリス(ミシェル・ブーケ)と恋に落ちてしまう。ひとりの魅惑的な女に3人の男たちの駆け引きが絡まるさまは、まるでルノワールの『黄金の馬車』や『恋多き女』にそっくりだが、ルノワール作品に見られる弾けんばかりの歓喜や狂乱とは正反対に、グレミヨンはこの状況を悲劇的に、ほとんどサスペンスのように描く。ルノワール作品で連想すれば、『獣人』で「ニノンの小さな心臓」の旋律に乗ってシモーヌ・シモンの首を絞めたジャン・ギャバンの姿(グレミヨン自身の『愛欲』のギャバンもそうだ)は、この映画でウエディングドレスに身を包んだオデットの首を絞める伯爵の姿となって再び現れる。また、海辺の断崖ぎりぎりの地点を歩くモーリスとオデットの姿は、『浜辺の女』のロバート・ライアンとチャールズ・ビックフォードの歩みと響き合い、女中ミミと伯爵がくるくるくるくる回転する夢の中の舞踏場面は、ジャック・ベッケルの『肉体の冠』のラストシーンに連なっている。

 モーリス「おまえらはみんな私生児だ!」

 グレミヨンの『白い足』からは、ルノワールとベッケルのにおいがする。まるで私生児のモーリス、伯爵、ジャックのように、グレミヨン、ルノワール、ベッケルの映画のなかには同じ血が流れているようだ。この血は彼らが映画に熱狂し始めた若い頃見たアメリカ映画(例えばシュトロハイム『グリード』)の記憶なのかもしれない。そしてその記憶が幾つもの映画を経ながら、やがてアルノー・デプレシャンが『キングス&クイーン』の中で示唆したように、「養子」という形をもって再び次の世代の映画に受け継がれていくのだろう。映画の記憶とは映画の血であり、その血縁が真に見事に継承されているさまをふとある映画の中に見出した時(もちろん表面上の類似ではなく、まさにその血の匂いを感じた時だ)、いい知れぬ驚きと興奮と、層状に厚みを帯びた映画の記憶を揺すぶり呼び覚まされ、感動に打たれてしまう。つい先日、再見する機会のあった『レイクサイド マーダーケース』は、無数の映画を想起させる映画、つまり無数の映画の記憶に溢れた映画だった。私は役所と柄本が女の死体を湖に沈めるシーンで『サンライズ』のことを思い起こし、身震いし、その水面に完全に魅せられた。そして今日、偶然にも、『白い足』のなかで、ちょうど『レイクサイド〜』の薬師丸ひろ子がそうだったように、女がひとり水の中に沈められ、「その女を殺したのは私」と名乗り出て罪を背負おうとするもうひとりの女(アルレット・トマ)が登場したのだった……!

 ともあれ、本日『白い足』を見た多くの観客が、この大傑作に魅せられ、ジャン・グレミヨンという未知数の映画監督がその生涯のうちに撮った40本以上ものフィルムを目にする機会を心から切望したことはほぼ間違いない。グレミヨンの映画をまとめて見る体験を、おそらく多くの人間が求めている。

DANSE in cinema 2006
オリベホールにて開催