『マンダレイ』ラース・フォン・トリアー結城秀勇
[ architecture , cinema ]
「ドッグヴィル」を後にしたグレースは「マンダレイ」に立ち寄る。そこはローレン・バコール演ずる「ママ」の法律が支配する場所だった。グレースは村人を時代錯誤的な「ママの法律」から解放しようと試みるのだが、結局のところその試みは失敗し、自分が新たな「ママ」になることでしか「マンダレイ」と関係を持つことができなくなる。
マンダレイという街を存在させる原理が、ママの権力で繋ぎとめられた被支配者たちであることは、昨今のいくつかのアメリカ映画を想起させる。吉祥寺バウスシアターで行われていた特集「アメリカを見つめる視線 ロスト・イン・アナザー・アメリカ」のライナーノーツに、須藤健太郎が『25時』『クライシス・オブ・アメリカ』といったフィルムについて書いていたように、「一方には、耳元でささやく不気味な母親がおり、もう一方には、優しく語りかける穏やかな父親がいる」。そのような「ママ」は『クライシス・オブ・アメリカ』のメリル・ストロープだけではない。例えば、『ミュンヘン』の愛国心を説くエリック・バナの母親(そしてバナを任務へと導く老婆)が思い出される。そしてこのフィルムにはそれに対する優しい「パパ」、ミシェル・ロンズデールがいた。あるいは『アレキサンダー』のアンジェリーナ・ジョリー。また「あなたは王様よ」とささやく『ミスティック・リバー』のローラ・リニーをも思い出す。
あるいはこの対極に、失墜した母親像を置いてみるのも興味深い。『サラ 偽りの祈り』のアーシア・アルジェント。あるいはケヴィン・ベーコン(彼が『ミスティック・リバー』で演じていたのは、イーストウッドの分身のような役割ではなかっただろうか)の監督作『バイバイ、ママ』におけるキラ・セジウィック。彼女たちは北アメリカ大陸の大地を横断しながらも、その土壌からなにも生み出すことができない。彼女たちにできるのは、自らの子供を自分に似た存在に変えること、そして自らが子供に似ることだけだ。いずれにしても彼女ら「ママ」の権力は、なにかを直接生み出すことによってではなくて、すでに生まれた者たちを「教育」する所にこそあるのだ。夫を(子を)王に任命することで、自らをこの王国の最初の家臣でありながら同時に王国を創り出した女王であるような存在へと変身させるのだ。
これらの「ママ」たちに対する考察はまた別の機会に改めて行われるべきだろう。ひとつだけ言うとすれば、『マンダレイ』では「ママ」になってしまう女の姿が描かれているということだ。その視線のあり方は、ラース・フォン・トリアーが「アメリカ3部作」全体で試みていることと根を一にしているように思える。