『ニュー・ワールド』テレンス・マリック須藤健太郎
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「映像と音響の洪水」という表現がいつだったか何かの映画にされていたと思うが、まるでその表現がぴったりと当てはまるように、この映画は見る者を圧倒するだろう。絶え間なく聞こえるモノローグの数々がこの映画の語り手を決して一点には収斂させず、拡散させていくうちに、語りの時制も語り手の人称も判別することができないまま観客はそのラストを迎えてしまうはずだ。大まかに言えば、ポカホンタス(クオリアンカ・キルヒャー)とジョン・スミス(コリン・ファレル)のモノローグが中心となる第1部と、それにジョン・ロルフ(クリスチャン・ベール)のそれが加わる第2部に分けることができるのかもしれない。
多くのアメリカ映画が現在のアメリカという国家が向かう保守化へのリアクションとして生まれている中、テレンス・マリックはアメリカという国家の誕生の瞬間に立ち戻ろうとしているのだろうか。『ニュー・ワールド』は確かに17世紀初頭に起きたイギリスによるヴァージニア入植という歴史を描いた作品ではあるが、またポカホンタスを巡る三角関係を中心にしたこの物語は、例えば『天国の日々』に見られたものと同等な、あるいはその物語の変奏を語っている。ジョン・スミスと互いに愛し合いながらも他の男との結婚を選ぶポカホンタスには、リチャード・ギアとの関係を隠したまま農場主と結婚するブルック・アダムスと同様な物語が託されている。そして、愛する人と一緒に暮らすまさに「天国の日々」が描かれるという点も合わせて考えるならば、およそ30年近くが経過してもなお、同じ物語を繰り返し語り続けるテレンス・マリックのその頑強さを私たちはここに確認すべきなのか。
しかし、クオリアンカ・キルヒャーに託されたのは、なにもそのような物語だけではない。村を追われ、イギリスの入植地に迎えられ、大海を渡ってイギリス女王への謁見を果たす彼女が経過する物語は、まずなによりも彼女の身に纏うその衣装の変化として提示される。例えば、コリン・ファレルと彼女が心を通わせる出会いの場面が言葉の交換によって演出されてはいても、トリュフォーが『野生の少年』で言葉の修得を執拗に描いたのとは異なり、『ニュー・ワールド』では彼女が初めてコルセットを身につける場面や初めて履いたヒールに戸惑う彼女の姿がじっくりと捉えられ、入植地を闊歩するイギリス人女性のその衣装が何度も映し出されるのである。ここでは、彼女が毛皮を覆うためにこそ、雪の降る寒い冬という季節がやって来るのだ。
テレンス・マリックは、歴史を映画にするにあたって、それを純粋なコスチュームプレイとして演出している。もちろん歴史劇がコスチュームプレイとなる必然は映画史の常識だろうが、ふたつの世界とふたりの男の間で揺れ動くひとりの女性の変遷を、その衣装の変遷として見せるテレンス・マリックのその確信ともいうべき気概を私たちはここに感じるはずなのだ。