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March 31, 2006

『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』トミー・リー・ジョーンズ
田中竜輔

[ cinema , sports ]

 合衆国とメキシコとの国境において生まれたこのフィルムは、同時にもうひとつの境界を起点にしてその運動を始める。それは「生」と「死」における境界においてである、と言ってしまえば単純なことに聞こえるのかもしれないが、そうではない。
 まずはじめに、私はこのフィルムの序盤を見ていて人間関係がまったく理解できないことに戸惑った。このフィルムはそれほど多くの人物が出演しているわけではないし、ここで語られている物語が複雑なわけでもまったくない。それでもなぜ、このような戸惑いを覚えたのか。それに気付いたのはオープニングで死体として発見されたメルキアデス・エストラーダ(フリオ・セサール・セディージョ)の生前の様々な光景が、ほとんど何の説明もなく、時間軸をなかば無視したような形で、そのうえ自然に繋がれていることに気付いたときだった。というのも、その時間軸の混乱にさえはじめはまったく気付くことができなかったほどに、その繋ぎが「自然」だったからだ。メルキアデスやトミー・リー・ジョーンズに限った話ではなく、メルキアデスを殺してしまったバリー・ペッパー、そして国境付近に住みついているほとんどすべての人々が、ひとりの人間の死を境に、現在と過去を行きつ戻りつしている。あるいはこう言い換えてみることもできる、メルキアデスの「死」だけが「現在」であり、人々はその「現在」を軸として「未来」と「過去」を周遊しているのだ、と。この国境の地では誰もが「生」と「死」を自由に行き来し、それを当然のように受け入れてしまう。時間の止まったようなこの場所に、よそ者であったジャニュアリー・ジョーンズが適応できないのは当然のことだろう。
 だが、トミー・リー・ジョーンズは友人との約束を果たすために、彼の家族が住むというメキシコのヒメネスという村を目指してその場所を脱出する。「死体=現在」を「過去」へ埋葬するために。だが、メルキアデスの死体は腐敗をやめない。誰もそれを止めることはできない。彼の死体に火をつけて迫り来る蟻を退治したり、塩をすり込み、アルコールを口の中に流し込むことでそのスピードを遅らせることは可能かもしれないが、その死臭は消えることなどない。この旅が始まると同時に、停止していたはずのメルキアデスの「現在」が動き始めたのだ。だからメルキアデスは掘り返されなければならない。停止した時間の中では、運動は存在しないからだ。
 このフィルムの後半部分にあたる彼らの旅の風景は、かなりの距離を移動しているだろうにもかかわらず、その距離が風景の差異によって現われることはない。ここがどこであるのかを知ることもできなければ、知る必要もないような風景しか存在しない。どれだけ先に進もうとも、決してその目的地に辿り着くような確信は存在せず、純然たる「さすらい」そのものがそこにあるのだといってもいい。だからその風景にも「生」と「死」が当然のように入り乱れている。崖の上から馬はあまりに当然のように落下し絶命してしまうし、バリー・ペッパーの逃げ込んだ洞窟にはガラガラヘビが住み着いている。辿りついた村のバーでは、少女が調律の狂ったピアノで不安定にショパンを演奏している。このあらゆる「曖昧さ」に満ちた世界で、トミー・リー・ジョーンズは唯一の目的であった「過去」に到達することはなかった。それどころか、その「過去」はそもそも存在していなかったことを知ることになる。

 はじめにこのフィルムは「境界」において運動を始めると書いたが、その「境界」とは、たとえばAとBを区別するためのものではない。それはむしろA≠Bではあるが、A=B'であり、かつB=B'であるということを示すためのものだ。この論理の破綻をトミー・リー・ジョーンズは正当化する。疲労と焦燥に満ちた旅路の果て、「ヒメネス」というどこでもない場所にメルキアデス・エストラーダが埋葬されるとき、彼らは目に見える「現在」を失う。それは同時に、新たな「現在」そのものを手に入れる瞬間なのだ。その「現在」の残酷さと力強さを、山小屋に孤立した盲目のレヴォン・ヘルムはすでに知っていたのかもしれない。

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