チャンピオンズ・リーグ準決勝2nd Leg梅本洋一
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ビジャレアル対アーセナル 0-0 (0-1)
この退屈さはいったい何なのか? 日本時間で早朝も早朝3時45分キックオフのゲーム。冒頭からぼくらの疲労はピーク。さらにこのゲームには目の覚めるようなスルーパスもなければ、信じられないシュートもない。ひたひたとアーセナルのヴァイタルエリアに攻め入るビジャレアル。そこから繰り出されるスルーパスや、クロスをアーセナルのバックラインがひたすらクリアするだけのゲーム展開。クリアするだけだから、セカンドボールはタッチラインを割るか、そのまままたビジャレアルが拾うだけ。するとまた同じことの反復。冒頭の15分のゲーム展開がそのまま90分続行される。確かに開始早々アーセナルの左サイドバックのフラミニがハムストリングを痛めて退場、そしてガエル・クリッシーの久しぶりの出場(さらにセンデロスを怪我で欠いているアーセナルのバックラインには、心身症を言われたソル・キャンベルが入っている)。左サイドのレジェスとピレスの交代。そして何よりも終了間際にリケルメのPKをレーマンがセーブするというクライマックスもあった。だが、結果論でも何でもなく、何となく、リケルメのPKは決まらないという確信がぼくにはあった。おそらくこのゲームの停滞感が余りにも厚く、このアルゼンチンの天才ミッドフィールダーの右足をもってしても、この厚い停滞は破られないのでないかという予感があったのだろう。
攻めなければならないビジャレアルもアタックをリケルメとアタッカーに任せ(もちろんソリンはいつも走り続けているが)、どうやって点を取り、どうやって勝ちきるのかというストラテジーがまったく感じられない。そうだ。停滞感も、倦怠感も、リケルメの遅さが原因だ。このゲーム前のインタヴューでヴェンゲルは、ビジャレアルは南米のチームだ、と断言していた。そして、実際にゲームを見ると、ヴェンゲルの断言は正しかった。だが、南米のチーム、といっても現在の南米のチーム──セレッソンやアルゼンチン代表──ではなく、もっと過去の、そうおそらく70年代の南米のクラブチームのような感じ。つまり、選手のひとりひとりが個人技を凝らし、足下でボールをもらってからゆっくりとルックアップ。わずかな隙間を通し、悦にいる……。そんなグッド・オールド・デイズのフットボール──フッシボルと書いた方がよいか?──、それがビジャレアルのフットボールだった。アーセナルは、あえて自らのスタイルを捨て、その証拠に、ビジャレアルボールを中盤で奪っても、全員が一気に前に出て行くことはなく、ポジションを守り、次のビジャレアルの波に備えるようなフットボールを展開していた。アンリはひとりポツンと全身でボールを待ち続けていた。「今日はゴドーさんはいらっしゃいません」と言われても、町はずれの木の下に佇むポッツォーとラッキーのように。リケルメがボールを持つと、まるで道ばたに捨てられたチームの破片に群がるハエのように数人が取り囲み、パスコースを消しにかかった。
アーセナルのこの夜の姿勢をリアリズムと呼ぼう。かつてこのチームにはまったく存在しなかった姿勢がそれだ。かつてのこのチームは常に理想に燃え、モダンフットボールを追い続け、近未来のフットボールの在処を身を以て示してくれた。だが、この夜のフットボールは、フットボールの理想などとりあえずあえて置き忘れたふりをして、5月15日にスタード・ドゥ・フランスのピッチに立つという唯一の目的のために選択したフットボールだ。だからこそ徹底したリアリズムをチームが呼吸していた。ビジャレアルもここまである種のリアリズムで勝ち残ってきたが、5月15日のピッチに立つための90分に徹しているヴェンゲルのリアリズムと確信を打ち破るには、ビジャレアルのフットボールは余りに古色蒼然としていた。フリーキックを蹴るリケルメの額には常に大量の汗が光っていた。職人芸だけで冷徹なリアリズムを越えることなどできない。そのことをリケルメの身体が知っていたからだろう。