『ジーコ・スタイル 進化する日本代表』中小路 徹梅本洋一
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W杯開幕までもう1ヶ月を切ったせいか、どの書店にもフットボール関係の書物のコーナーが作られている。だが、日本が初出場した98年のフランスや日韓共同開催の02年のW杯に比べて気分が盛り上がらないのはなぜだろうか? その間にフットボールへの関心が衰えてしまったからか? いや、その逆だ。このサイトを見てくださる方なら理解していただけるだろうが、フォローするゲームの数はどんどん増えている。今シーズンもW杯前にあと1ゲーム、とても重要なゲームが残っている。来週の水曜日のスタード・ドゥ・フランスでのチャンピオンズリーグ決勝だ。バルサ対アーセナルという理想的な対決がW杯前に控えている。
W杯までフットボールへの関心が続くかどうか正直心配だ。時差を乗り越えて信じがたい数のゲームを見ていると──ときには録画したものを早朝に見ることもあるが──、疲労もピークに達している。なにしろフットボールを言い訳に仕事をさぼっていない。W杯に集中できれば、4年前の火曜日の午後に開催された日本対ロシア戦のように授業を休講したこともあったけれど、これだけフットボールが日常化するとフットボールを理由に仕事をさぼっていたら、仕事がなくなってしまう。4年前はフランスの一次リーグ敗退の原因が、主力選手の過密日程にあるとされて、プロなんだから仕方ないだろう、と思ったが、来週の水曜に緊張をピークにもっていかざるを得ないアンリ、ロナウジーニョなど両チームの主力はW杯の主力でもある。見ているだけのぼくでさえ、もう疲労感を感じているのだから、実際にピッチに立つ選手たちがこの決勝戦の後、もう一度モティヴェーションを頂点に持っていくのは相当大変なことだろう。アーセナルは、先週行われたプレミア最終戦のウィガン戦に勝利し何とか来シーズンのチャンピオンズリーグ出場権を確保した。そして次週は決勝。W杯に出場する選手たちは、それから各国チームに合流し、すぐにW杯。
今までW杯観戦にモティヴェーションを頂点に持ってこられたのは、ぼくもまたドメスティックなフットボール日程に浸っていたからかもしれない。ヒデや俊輔のように所属リーグのゲームをこなし、48時間前に帰国して国際Aマッチに備える信じがたい日程を、ぼくもモニターの前で追体験していると、長期的な展望よりも目先の1ゲームをどうやって戦うかだけに集中せざるを得ないのだ。そうか、あれからもう4年か、あれらの日々をまだよく覚えているからとても短かったような気もするし、その間に起こったたくさんのことを思い出すとそこにやはり1500日近い日々が流れていることも感じられる。
ジーコが日本代表の監督に就任した最初のゲームは、この書物によると2002年10月18日の対ジャマイカ戦。ヒデ、俊輔、稲本、伸二の4人が中盤のボックスを囲んで「黄金のカルテット」と呼ばれた夜のことだった。ぼくは、その夜のゲームはライヴで見ていない。黒沢清の『アカルイミライ』の試写に行っていたからだった。それからこんどのW杯までジーコはどんなチームを作ってきたのか。朝日新聞のジーコ番記者が書きためたのがこの書物だ。「何も方針がない」と批判されるジーコの大方針が「選手に任せる」ことであり、ピッチに立つのは俺たちなんだ、という自覚を持たせることにあるのは、どの頁からも伝わってくる。確かにポゼッションしながら、チャンスを見て攻め込むジーコの戦術は退屈ではあるのだが、ポゼッションしながら「オトマティスム」で選手が動くのではなく、自分で考えながら選手たちが有機的に動いていくフットボールは選手たちを成長させている。おそらく2004年の中国の酷暑のアジアカップがこのチームを熟成させる契機になったのだろう。中小路記者の詳細な記述は、ぼくの細部の記憶を甦らせてくれる。
そして、最後のページを読み終えた瞬間、今回の盛り上がりのなさの原因が分かった気がした。ドーハの悲劇もジョホールバルの歓喜もなく、トゥルシエという極めて稀な個性がフィーチャーされたこともなく、とても淡々とした日常が、ジーコの代表チームに流れているからだ。毎日毎日が戦いであって、そのために常に準備をし、ゲームにあっては主審のタイムアップのホイッスルが鳴るまで最後の最後まで諦めないこと。ごく常識に属する、そして、当たり前のことが毎試合反復し、それらが達成されたり、されなかったりするのだが、次第に常識として認知されてくる。もちろん、ゲームには出来不出来もあるし、緊張も弛緩もある。勝ちも負けもある。そんなことは単に日常なのだ。チャンピオンズリーグの決勝が終わり、W杯の開幕前まで自国の合宿に参加し、そしてまだ体調が不十分ではあるけれど、何とか1次リーグを乗り越え、決勝トーナメントにピークを持っていく。そして、結果がどうあれ、7月の下旬からはわずかな休暇が訪れて、それから8月にはもう所属チームの練習が始まる。世界に君臨するフットボーラーたちの日常とはそうしたものだ。W杯は日常だ(隔年にはそれぞれの地域の選手権があり、またその隔年にはコンフェデレーション・カップがある)。セレソンの中核として活躍し、鹿島、代表の指揮をとるこの淡々とした男のドキュメントから読みとれるのはそんな感想だ。ドイツW杯が盛り上がっていないのではない。ぼくにとってW杯など単なる日常になった、ということだ。ジーコに指揮されたこのチームの選手たちもそう感じているのではないか。日本代表はずいぶん強くなった。