『ヨコハマメリー』中村高寛梅本洋一
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ぼくもヨコハマ・ネイティヴだから、白塗りの街娼メリーさんのことは知っていた。そして、それがドキュメンタリーとして撮影されたと聞いて見に行った。横浜で見たのではない。池袋だ。
もちろん監督の中村高寛が語るとおり、メリーさんの消息を求めていくドキュメンタリーの通常のスタイルを期待していない。白塗りだから彼女は伝説になったのだろうが、白塗りでなければこんな女性はたくさんいたろう。問題は「ヨコハマ」だ。ぼくもマイホームタウンに関心がある。このフィルムにも根岸屋、シルクセンターなどのヨコハマは出てくる。なくなってしまったもの、まだあるものが出てくる。メリーさんもまだ生きている。元次郎さんという癌と闘う老シャンソン歌手の人生がメリーさんのそれと重層する。だが、残念なことに映画になっていない。ヨコハマという主題は、極めて「おいしいネタ」だ。ネイティヴであるぼくが語るのはひいき目だろうが、この地は、同時代の他の場所と異なる。外国がまだ遠かったころ、日本という場所の中で極めて外国性の濃厚だった場所だ。ぼくにもそういう記憶がたくさん残っている。そして、今の横浜と記憶の横浜を比べると、記憶の中の横浜の方がだんぜん素敵な場所だ。記憶はいつでも美しいからではない。
シルクセンター──このフィルムでは昭和30年代にシルクセンターでドラッグストアを経営していた大野慶文(大野一雄の息子)が語る──には、80年までシルクホテルがあって、ニューグランドと並ぶ素晴らしいホテルだった。そしてこの建物は坂倉準三の傑作だ。横浜の語り部たちが、根岸屋について語るが、今の駐車場になってしまったこの伝説的な酒場はいったいどういう経緯から生まれたのかはまったくわからない。元次郎というもとゲイボーイのシャンソン歌手(歌はちっともうまくない)は、20歳で上京したそうだが、なぜ横浜にやってきたのかさっぱりわからない。
なくなってしまったもののノスタルジーを語るだけでは、映画にならない。過ぎ去った時代を思い出すだけでは映画にならないのと同じだ。メリーさんのいたヨコハマは今の横浜と対比され、その差異について考察する明瞭な問題が立てられていない。これはこのフィルムの致命的な欠陥だ。たとえば成瀬巳喜男はいつも「なくなりつつあるもの」ばかりを描いたが、たとえば彼の『流れる』にある「かつてあって今はない」ものへのメランコリー、あるいは川島雄三の『幕末太陽伝』や『州崎パラダイス 赤信号』に見られる風景への感受性──残念ながら、このフィルムには、このフィルムを特徴付ける凹凸がない。今、ヨコハマについてのドキュメンタリーを撮ることは、清水宏の『港の日本娘』、日活無国籍アクション、黒澤明の『天国と地獄』以降の横浜について映画的に思考することから出発すべきだ。このフィルムには何よりも、映画のランドスケイプへの眼差しがない。