宿沢広朗の死梅本洋一
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もうひとつのフットボールのW杯ジャーナルの執筆にかまけてラグビーを見なかったわけではない。エリサルドHCの迷走は相変わらず続き、トンガばかりでなく、イタリアにもサモアにも惨敗を続けている。5周連続テストマッチなど時間の無駄だ。
そんなことを考えていると、訃報が飛び込んできた。宿沢広朗の急死である。心筋梗塞。このコラムの読者の方なら、ぼくが宿沢を代表チームの監督に! と連呼したことを覚えていてくれるかもしれない。三井住友銀行の執行役員という仕事よりも、ラグビー日本代表チームの監督の方が短いけれどもやりがいのある仕事なのでは──とぼくは書いた。だが、現実は、彼は銀行役員の仕事を選び、そして代表チーム強化委員会の仕事からも8強委員会の仕事からも退いていた。エリサルドのチームの不成績は、彼の方法の失敗を意味し、W杯で唯一の勝ち星を上げた91年の宿沢のチーム、今なら100点差は覚悟しなければならないスコットランドに勝利を記録したこともある宿沢の手腕にもう一度期待するのもごく自然なことだったろう。
ぼくが大学に入学したとき宿沢広朗は同じ学部の4年でラグビー部のトップチームのSHだった。当時のラグビー部は対抗戦で不敗神話を誇り何十連勝を続け、日本選手権さえ獲得したこともある。宿沢は、キャプテンとして石塚、藤原、植山などの有望な下級生を率いて見事なラグビーを展開していた。彼はラグビーの名選手として入学したわけではなく、熊谷高校を普通に卒業し、政経学部に入学し、ラグビー部に入部した。そしてジャパンにまで登り詰めた。大学卒業後は旧住友銀行に入行したので、ラグビーは続けず、トップディーラーとして長年活躍した。ジャパンのキャップ数もわずか3。だが、対イングランド戦での彼のディフェンスは忘れられない。テレビ中継でそのゲームを見ていたぼくは、イングランドのライン攻撃が炸裂し、ジャパンのディフェンスを切り裂き、解説の大西鐵之祐が「ラインをつくらにゃあかん!」と絶叫すると、小柄なSHがトライライン目前で猛タックルし、イングランドのトライを未然に防いだのだった。小柄なSHとはもちろん宿沢広朗だった。ぼくがラグビーについて初めて商業誌(「ナンバー」)に書いたのもそのゲームの彼のディフェンスについてのものだった。長くロンドンに在住し、ジャパンが遠征するとテストマッチの解説で元気な声を聞かせてくれていた。
その彼がジャパンの監督になったのは91年の第2回W杯のときだった。徹底したスカウティングで勝利を目指し、現実にその勝利を手中に収め──6月のスコットランド戦がその例だ──選手に自信を植え付けてW杯に臨んだ。誰もが勝てないと思っていたスコットランドに勝利し、走力のあるウィング吉田にボールを集めてトライの形を持っていた。
彼は相手のチームを観察し、その弱点を研究し、目前のゲームを勝利に終わらせる術を知っていた。決して育成型のコーチではない。それがディーラーとして鍛えた勘かどうかは判らないが、現実的な勝利をたぐり寄せる術を知っていた。55歳という年齢は若すぎる。亡くなった17日は、友人と山歩きをしていたという。ジャパン対サモア戦のあった日だ。彼はもうラグビーに情熱はなく、テレビの前でジャパンを観察するよりも友人と山へ行くことを選んだのだろう。とても残念な気がする。