飯田竜太展 藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所)
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小さい頃、夏のキャンプで拾いに行った黒曜石の固まりをずいぶんと大切にしていた。何かが見えるわけでもないのに、何かが見えるような気がしてなのか、ツルツルした黒い半透明な鉱石を光に透かし、そこに浮かぶ斑をよく眺めていた。
例えば「本」という記号を分解すると「木」と「一」になるし、「book」という集まりを解体すれば「b」と「o」と「o」と「k」になるし、「b」をばらせば「l」と「o」のような図に分かれる。
こうした構造性を「ほぐす」行為は、一見その構造性を破壊したようにも思えるが、実は脱臼した程度で、再び何かのかたちに「綴られる」瞬間、綴られる形式の下において新しい織り(context)を示すのである。
こうした感触は、例えば古い建物を改修していくようなときに、大いに感じることがあるし、普通に新しく建物を設計するときでも、昨日までの作業を「ほどいて」、「織りこんで」いるような感覚の連続である。多分、書物や音楽や建築や映画のようなものはいずれも「織物」として、つまり「ほどく」「織る」という行為によって築きあげられる時間軸を伴った構築物として、様々に論述されてきたはずだ。
そして、優れた書物や建築は、そうした綴れ織りの痕跡を全く見せずに、「始まり」をつくり出すのだと思う。それをまた誰かが「ほどく」。
ザクリとしかし。
飯田竜太は「削る」ことで「書物」を鉱物的な存在に一息に置換してしまった。
まず「それ」をジッとみていると、様々な隆起の上に刻みこまれたそのひとかけらひとかけらが、何かを伝えているような伝えていないような、大量の情報を含んでいるようなまるで何も意味がないような不思議な存在であることに気づく。「それら」が生み出す、無限大から極小までの静かなヴァイブレーションに浸っているとスルっと何かの内面に滑り込んでいくような不思議な瞬間が生まれてくる。
「削る」という行為の凄みをこれほどまでに鮮やかに見せつける例を他にあまり知らない。
飯田竜太展 2006年6月13日(火)~7月2日(日)
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