『カポーティ』ベネット・ミラー須藤健太郎
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フィリップ・シーモア・ホフマン好きの人には、とにかく見ることを勧めたい、そんな映画である。『カポーティ』は、フィリップ・シーモア・ホフマンの映画以上でも、またそれ以下でもないからだ。ポール・トーマス・アンダーソンやトッド・ヘインズなどの若手監督たちにほのかな愛情をもって起用され、名バイプレーヤーの地位を築きつつあった彼が製作総指揮を務め、主演を果たしたのが、この『カポーティ』なのである。伝記を読んだり、ビデオを繰り返し見たり、あるいはカポーティの知人にも会うなどのリサーチを重ねることで、カポーティになりきることを選んだフィリップ・シーモア・ホフマンは、この作品でアカデミー賞主演男優賞を受賞したことは記憶に新しい。これまでは画面のすみで物語を支えていた彼が、一気に前面に踊り出し、多くの視線を獲得することに成功したのである。監督のベネット・ミラー、脚本のダン・ファターマン、そしてフィリップ・シーモア・ホフマンの3人は、高校時代からの友情を、この作品を製作することによって結実させたのであった。
『カポーティ』は、トルーマン・カポーティが、実際に起きた殺人事件をもとに執筆した『冷血』のメイキングとも言える映画であり、『冷血』を執筆するに至った経緯から、それを執筆し、完成させるまでが大まかな物語の流れであると言っていいが、事件に過剰に感情移入し、さらには犯人のひとりペリー・スミスに自己を同一化させるここでのカポーティを見ていると、宮崎勤事件やオウム真理教による地下鉄サリン事件、あるいは世田谷一家殺人事件などに過剰に反応した文化人や、それらの事件を巡る昨今の日本の言説状況を想起させずにはおかない。もちろんそれぞれ事情は異なるだろうが、誤解を恐れずに言えば、みんながカポーティへの秘かな憧憬を隠し持っていたのではないかと思えたのである。『冷血』によって「ノンフィクション・ノベル」というジャンルが確立されたとする文学史の常識を踏襲するならば、現代日本におけるいわゆる社会学的な言説の多くが、本人たちの自意識とは別の次元ではあるが、カポーティによって形作られた枠組みの内側でのゲームに興じていたようにすら思えたのであった。とすれば、カポーティが成し遂げたことは、とんでもなく偉大なことだったのではと改めて考えさせられた。
これまで、電話帳で見つけた女性に手当たり次第に電話しオナニーを繰り返すような、いわゆる「ナード」「おたく」と言われるような人物を演じてきたフィリップ・シーモア・ホフマンが、短躯で変わった喋り方をし、さらにはゲイであることで保守的なアメリカ南部社会では受け入れられなかったカポーティを、そして作家として成功することで一気にセレブの仲間入りを果たすカポーティを演じることによって、その名声を確立させたと言えば、あまりに意地の悪い見方かもしれないが、しかし、そんなふたりの物語が重なり合ってしまうからこそ、彼なしには成立し得ない映画になったのではないかとも思った。
カポーティが過去の告白をすることで相手からの証言を引き出し、それによって物語を駆動させる『カポーティ』は、まったく破綻なく物語を語ることに成功しているし、さらには家具や衣装、あるいはソフトフォーカス気味の画面などの細部もまた、良質なアメリカ映画を構成することを保証しているが、少なくとも私には、それらすべては、カポーティの身振りや話し方を模倣し、演じるフィリップ・シーモア・ホフマンを輝かせるための、彼の演じるカポーティを支えるための細部のように思われたのである。
今秋、日比谷シャンテシネ、恵比寿ガーデンシネマほか全国順次ロードショー
http://www.sonypictures.jp/movies/capote/index.html